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【スポーツ史 平成物語】

夏春連覇経験も平成は出場ゼロ 古豪復活へ苦闘する法政二

2018年12月21日 紙面から

1960年、夏の甲子園大会で優勝した法政二ナインは田丸監督を胴上げした

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第7部 アマ野球編(4)

 平成の時代に消えた名門校が多数ある。昭和の時代に甲子園で夏春連覇を経験した法政二(神奈川)は、昭和最後の夏の大会に出た後、甲子園に一度も姿を見せていない。球都といわれた桐生市から群馬の高校野球をけん引した桐生は、40年間も甲子園から遠ざかっている。それでも、両校をはじめとするかつての名門校は古豪復活を目指し、平成の向こうの新時代に目を向ける。 (文中敬称略)

 「HOSEI」のユニホームは、ついに平成の時代には甲子園の土を踏めなかった。今秋の神奈川県大会2回戦で桐蔭学園に4−6で敗退。平成最後の甲子園大会となる来春センバツの出場が絶望的となった。昭和35(1960)年夏と翌春、エースの柴田勲(のち巨人)を擁して甲子園夏春連覇を達成。春夏通算で出場11回、通算19勝の名門は、昭和最後の甲子園だった昭和63(1988)年夏の出場を最後に冬の時代に入った。

夏の甲子園決勝 ガッチリと握手する法政二・柴田(右)と奈良=1960年8月

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 昭和時代にも低迷期はあった。昭和57(1982)年夏、前監督で現部長の絹田史郎(54)が出場した時は21年ぶりの甲子園出場だった。昭和59年のセンバツをはさみ、昭和63年夏に捕手として出場した目良宏(47)=現鷺宮製作所監督=は「甲子園に出たかった。神奈川では横浜、(東海大)相模、法政二、桐蔭学園、Y校(横浜商)のどれかが甲子園に出るといわれていました」と振り返る。その夢を3年夏にかなえた。

 法大野球部グラウンドの一塁側にへばりつくような敷地が法政二のグラウンドだ。昭和のころは大学生が午前中に練習し、午後はグラウンドが空いていた。法政二は広いグラウンドを借りて練習。大学生が来て打撃投手をしてくれたり、アドバイスをしてくれたりもした。目良のころは大島公一(のち近鉄など)が打撃を教えてくれた。東京六大学のトップレベルの選手は最高のお手本。「大学生のボールを見ているので、高校生の投手ならという自信もあった」と目良は思い起こす。

法政二−福岡第一7回裏、3点本塁打を放つ福岡第一の山之内。捕手・目良=1988年8月、甲子園で

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 昭和63年夏、初戦の相手は「九州のバース」と呼ばれた山之内健一(のちダイエー)や、左腕の前田幸長(のちロッテ、中日など)を擁する福岡第一だった。大会第2日の第1試合。2回裏、巨漢の山之内が先頭で左打席に入った。

 「バース来たなって言ったら、ニヤッと笑って直後にホームランされました。終盤にもダメ押しに近い一発も打たれました」。4−7のスコア以上の敗北感を感じた記憶は鮮明だ。「いい試合をしたとも言われましたが、いまにして思えば完敗。前田のカーブは見たこともないようなブレーキだった」

 この甲子園を最後に「HOSEI」は甲子園から消えた。春の神奈川を制したこともあったが甲子園は遠く、1回戦で負けるようにもなった。昭和の時代に学業よりも練習を優先できた法大野球部が学業重視にシフト。高校生の練習を見る時間的余裕がなくなった。大学とともに、高校も学業ファーストになっていった。もともと法政二にはスポーツ推薦がなく、野球部員はほとんどが「書類選考」。合格基準点も上がった。

 法政二の教壇に立ってから30年の絹田は言う。「選手が取れなくなったのが大きい。入りたいと思う選手がウチの基準点を満たしていなかったり、逆にウチの基準点を満たしている野球のうまい子は早実(東京)や慶応(神奈川)に行ったりする」。共学になって3年、今では9教科の5段階評点が4と5ばかりでないと入れない。選手獲得では東海大相模や横浜などにかなわない。

 ただ、冬の時代を抜けた手本がある。東京六大学でもライバルの慶応だ。大正5(1916)年に行われた夏の第2回大会で優勝した古豪中の古豪。平成17(2005)年のセンバツで43年ぶりに復活すると、その後の13年間で春夏計5度の甲子園出場。いまや強豪私学の一角となった。

 平成20年の慶応義塾創立150年に向け、有力選手が入学しやすいようにした成果だった。「甲子園に出ることで、また選手が集まってくる。慶応は、まずは出るために思い切った政策をした」と絹田。選手時代に21年ぶりに扉を開けた経験がある野球部長は、30年間閉ざされている扉も開けられると信じている。 (小原栄二)

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◇古豪メモ

 春夏の甲子園大会で優勝した学校のうち、23校は平成時代に一度も甲子園大会の出場がない。このうち旭丘(愛知)、神戸、甲陽学院(ともに兵庫)は大正13(1924)年の甲子園球場完成以前の優勝校。いずれも「超」がつく進学校で、現在は県大会の上位に進むことも難しくなっている。

 このほか昭和4(1929)、5年に初のセンバツ大会連覇を達成した第一神港商(現神港橘、兵庫)は昭和51年夏、昭和22(1947)、23年に夏の大会で連続優勝した小倉(福岡)は昭和53年春を最後に聖地から遠ざかる。春夏を通じて初出場で優勝した昭和39年春の徳島海南(現海部)と同40年夏の三池工(福岡)は、いまだに甲子園の勝率が10割だ。

 法政二OBが、今秋の東京六大学リーグ戦で法大の12季ぶりVに貢献した。チームをまとめたのは、法政二からは30年ぶりの主将だった向山基生。青木監督が「隠れたMVP」と評したのは学生コーチの伊藤寛泰だ。母校は東海大相模や横浜などの壁を破れず、県内のベスト16あたりで毎年苦戦。伊藤は「ぼくたちの3年夏も、小笠原(現中日)がいた東海大相模に負けて16強。ここを破らないと甲子園にはいけない」と後輩にエールを送る。

 かつてのように毎日は大学のグラウンドを貸せないが、夏の大会の1カ月ほど前には大学1、2年生が練習試合で胸を貸すなど、法大野球部全体で付属校の復活に協力している。

40年間遠ざかる北関東の雄・桐生

群馬大会決勝、前橋−桐生3回裏桐生二死二塁で清水の左前安打で二走・柴田生還し4点目。=1978年7月、群馬県営球場で

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 今年の夏、東京ドーム内の野球殿堂博物館に桐生のユニホームが展示された。夏の甲子園100回大会を記念し、各都道府県の夏の最多出場校のユニホームが集められ、群馬は夏14度出場の桐生だった。北関東屈指の古豪も昭和53(1978)年夏以来、40年間も甲子園から遠ざかる。当時、二塁を守っていたOB会長の柴田敦(58)は「私たちのあと、10年近くは関東大会に行ってましたが…」と寂しげだ。

 桐生中時代の昭和2(1927)年夏に甲子園初出場。昭和30(1955)年のセンバツでは準優勝に輝いた。40年前の夏はエースの木暮洋とスラッガーの阿久沢毅を擁してセンバツで4強入り。初優勝の期待がかかった夏は、2回戦で県岐阜商に負けた。

 そこからの雌伏の時期は長い。監督就任6年目の高島喜美夫(47)は「文武両道を掲げる県立校としては選手を自由に取れないが、そういう中でもやれると思ってやっている」と強調する。高崎健康福祉大高崎や前橋育英など県内の強豪に負けない体づくりのため、冬場は週に1度は完全オフにした。「練習のあとは家で勉強。睡眠時間を減らしてばかりでは体がつくれないから」と説明した。

 市内の5校が甲子園に出場した桐生市は「球都」と呼ばれる。その中でも別格の桐生は、元監督の故稲川東一郎を抜きに語れない。自宅に「稲川道場」の看板を掲げて選手を指導し、多くのプロ選手を育てた稲川が没して今年で51年目。夏の群馬大会を前に、市内の高校が集まって開かれる交流戦の「稲川杯」が2年前から始まった。平成11(1999)年夏の甲子園を制した桐生第一からも、名門復活への刺激をもらっている。

【甲子園データ】最もプロ選手が多いのは横浜

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 平成元(1989)年に大半が高校3年だったのが昭和46(1971)年度生まれ。以後に生まれたプロ野球選手を、最も多く輩出しているのが横浜だ。2年連続首位打者の鈴木尚典(元横浜)が昭和47年生まれ、「平成の怪物」松坂大輔(中日)が同55年生まれ、最多勝3度の涌井秀章(ロッテ)が同61年生まれ、侍ジャパンの4番を打つ筒香嘉智(DeNA)が平成3年生まれと、広い世代にまんべんなく好選手をプロに送り込んでいる。上位10校に神奈川と大阪が3校ずつ。このうち、春夏を通じて平成時代に甲子園の優勝がないのはPL学園、仙台育英、桐蔭学園の3校だ。

 

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