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【スポーツ史 平成物語】

2004年センバツから導入 甲子園を変えたスピードガン表示

2018年12月20日 紙面から

元愛工大名電の丸山=名古屋市港区で

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第7部 アマ野球編(3)

 今では当たり前となった、甲子園のスコアボードに表示される投手の球速。導入されたのは平成16(2004)年のセンバツだった。開幕試合の立命館宇治(京都)−愛工大名電(愛知)で、両校のエースは自身の球速を数字として甲子園で確認し、スタンドのどよめきを体感。翌年には150キロ超の球速が初めて表示された。あれから10余年、高校野球とスピードガンにまつわる物語−。 (文中敬称略)

 平成16年3月23日に行われた第76回センバツ大会の開幕試合。立命館宇治のエースだった中田晶(32)は1回表のマウンドに立った。「初球は、たぶん真っすぐだったような…」。表示された数字は、はっきりとは覚えていない。自慢のスライダーを先頭打者に打たれたことだけは鮮明に覚えている。「これが全国か」

(左)2004年センバツで力投する愛工大名電の丸山(右)愛工大名電相手に力投する立命館宇治のエース・中田 

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 甲子園初登板の中田と投げ合った愛工大名電の丸山貴史(32)は、これが3度目の甲子園。ただ、スピードガンは初めてだった。「サブスクリーンに出ていたのをちらっと見ていたような…。見てばかりだと監督に怒られるので」。開幕戦の緊張もあったせいか、「正直、あまり気にする余裕はなかった」と振り返る。監督の倉野光生(60)からはいつも言われていた。「スピードガンはあくまでも目安。勝負するな。コントロール重視で、むしろスピードを殺して投げろ」

 丸山は卒業後にヤクルトでプレー。今は、名古屋市内の野球塾でボーイズの中学生を指導している。球速表示が当たり前になった時代。中学生も数字に一喜一憂するが、自身の経験を踏まえながら「スピードよりもまずはコントロール」と、恩師の教え通りの指導を続けている。

 この大会で愛工大名電はスピードガンを味方につけ、準優勝まで駆け上がった。倉野が忘れもしないのが準々決勝の秋田商戦。序盤からバントで揺さぶり、東北(宮城)のダルビッシュ有(現カブス)らとともに注目された佐藤剛士(のち広島)を疲れさせた。「最初は145キロだったのが131キロまで落ちた。ベンチでも『打てるぞ』と言っていた」と倉野。球速が落ちているのは、スコアボードに表れた数字から明らか。勇気づけられた打線が奮起し、7−1で快勝した。

甲子園での登板について語った中田

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 徹底したバント戦法で、翌春のセンバツでは初優勝を飾った。「スピード表示と優勝は間違いなく関係がありました」と倉野は言い切る。超高校級スラッガー・堂上直倫(現中日)の前後にはバントの上手な選手や足の速い選手がそろっていたため、徹底したバント攻めができた。それまで、相手投手の疲れは感覚的にしか分からなかったが、疲れ具合が数字に表れるようになった。持ち前のバント戦法がスピードガン表示とかみ合い、優勝をつかみ取った。

 この秋から、愛知県春日井市の野球部グラウンドで、マウンドの投手から見える位置に球速を表示した。「試合でスピードを気にして硬くなるなら、ふだんから意識して、それが当たり前にした方がいい」と倉野。いずれはスコアボードにスピードガンを表示する予定。「高校のグラウンドでは全国で初めてじゃないかな」とちょっぴり自慢げに話した。

 甲子園の高校野球で初めてスコアボードに球速を表示させた中田は、不動産会社の営業マンとして野球とは無縁の日々を送っている。本格的に野球を始めたのは小学2年のとき。巨人の外野手だった父に鍛えられ、幼少のころから毎晩8時から練習をするのが日課だった。「正直、野球は好きじゃなかった」というが、スポ根漫画の「巨人の星」さながら、嫌な顔を見せると父のこぶしが飛んできた。

愛工大名電グラウンドのネット裏のスピード表示=愛知県春日井市の同校グラウンドで

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 その父を喜ばせたセンバツ出場。当時の新聞には138キロと書かれた。秋の大会後に父の助言で、スリークオーターをオーバースローに変えた。「フォームを変えたのと、甲子園はアドレナリンがすごく出るので、スピードも出るんじゃないかと思い、気にしていました。狙ってはいません。球速を気にするピッチャーではないので」

 記憶に残るような数字ではなかった。肘や肩のことを考え、きれいな投げ方にしたのも裏目に出た。「オヤジも失敗したと言ってましたが、(打者に)見やすくなったんですね」。それでも、甲子園で節目の試合に登板した一女の父は「息子ができたら野球をやらせたい」と夢を語った。 (広瀬美咲)

 投手の球速を測定するため、プロ野球のスカウトがスピードガンを使うようになったのは昭和50年代の前半だった。初めて球場のスコアボードで球速を表示したのは昭和55(1980)年のナゴヤ球場。

 平成に入り、甲子園を含めてプロ野球の本拠地球場では球速表示が普通のこととなったが、高校野球の甲子園大会は表示を見送っていた。「球速とともにスポンサーが表示される仕組みがふさわしくない」「スピードを競うのはいかがなものか」などと議論されたという。「高校野球ファンの楽しみにもなる」という声にも押され、日本高野連が表示に踏みきったのは平成16(2004)年だった。

高校時代を振り返る辻内=埼玉県川口市で

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努力の証明の150キロ超え

 平成17(2005)年8月8日。夏の甲子園で当時最速の152キロをマークした大阪桐蔭の辻内崇伸(31)は、観客がどよめいたことを記憶している。春日部共栄(埼玉)戦ではもっと速いスピードを出そうと力み、さらに緊張が増した。「自分自身がわれを見失ったというか…。ちょっと悪い思い出ですね」

 球速が注目を集めるようになったのは高校2年のころ。プロ球団のスカウトのスピードガンで150キロ台をマークし、取材でも主にスピードのことを聞かれた。自分の活躍が初めて新聞に載ったときは純粋にうれしかったが、スピードばかりが注目されると「そこまで騒いでほしくない。スピードよりも練習という気持ち」になった。野球漬けの寮生活を送っていた多感な高校球児は、戸惑いを隠しきれなかった。

(左)2005年センバツで151キロを記録した柳ケ浦・山口俊(右)2005年、春日部共栄戦に先発した大阪桐蔭の辻内

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 同年春のセンバツでは柳ケ浦(大分)の山口俊(現巨人)が、天理(奈良)戦で自身の高校時代最速の151キロをマークした。状態は良く腕も振れていたが、クリーンアップに直球をはじき返されて0−4で完敗。スピードが出ても打たれることを知った。「結局、スピードじゃない。コントロールや打者とのかけひきがスピード以上に大事」。今もプロの第一線で活躍する山口が痛感したことだ。

 スピード表示は、悪いことばかりではない。初めて140キロを越す速球を投げるようになった1年秋。それまで食事と走り込みなどのトレーニングで体づくりに力を入れていた成果が、スピード表示にはっきりと出た。「これまでやってきたトレーニングが間違ってなかったと分かった」。スピード表示は、自分のやっていることの正しさを証明してくれた。

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【甲子園データ】大阪桐蔭は春夏通算73本塁打 

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春夏を通じて平成時代に最も多くの本塁打を放った学校は大阪桐蔭の73本。以下、智弁和歌山、明徳義塾、日大三と通算勝利数上位の学校が続く。都道府県別では118本の大阪と104本の東京が双璧。昭和以前に春夏を通じて本塁打が1本もなかった青森は平成9(1997)年の県勢初アーチを機に本塁打量産県へ転じ、7位タイの計43本を積み重ねた。最も少ないのは富山と鳥取の8本。島根と大分も10本と少ない。

 

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