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【スポーツ史 平成物語】

平成20年以降で甲子園V11回 「44年会」監督が時代に合わせ開花

2018年12月19日 紙面から

昨夏の決勝を制した岩井監督(右から2人目)ら花咲徳栄ナイン(伊藤遼撮影)

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第7部 アマ野球編(2)

 今年の甲子園大会は大阪桐蔭が春夏連覇を達成し、昨年夏は花咲徳栄(埼玉)が初優勝。チームを率いたのは、ともに昭和44(1969)年生まれの指導者だった。元中日の立浪和義らと同学年にあたる、この世代の野球人の親睦会が「44年会」。平成20年以降の春夏の甲子園大会では、半数の11度で「44年会」の監督が優勝した。昭和の監督に指導を受けた彼らは、時代に合わせて自分たちの野球を開花させた。 (文中敬称略)

 昭和44年度に生まれた監督で、初めて甲子園を制したのは東海大相模の門馬敬治(49)だ。平成12(2000)年のセンバツに就任1年目、30歳の若さで頂点に立った。決勝の相手は智弁和歌山。敵将の高嶋仁は監督として脂が乗り切っていた53歳。代名詞となったベンチ前の仁王立ちで“若造”監督をにらみつけた。

15年夏の決勝で勝ち越しソロを放った小笠原に抱きつく東海大相模・門馬監督(市川和宏撮影)

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 「こっちも分かっていなかったが、相手もこっちを分かっていなかったから勝てた。怖かったですよ。勝って、また怖さを感じました」と門馬は18年前を振り返る。

 この優勝を、まぶしく見つめていたのが大阪桐蔭監督の西谷浩一(49)だ。「こっちは甲子園に出ることでもがいているのに、同じ30歳で優勝するなんてすごいな、と思った」。コーチから監督になって2年目。名門の報徳学園(兵庫)で選手だったころも行けなかった甲子園に初めて選手を率いていったのは、その2年後の夏だった。

 当時は、高校野球人気をつくった監督が全盛だった。常総学院(茨城)の木内幸男、帝京(東京)の前田三夫、横浜の渡辺元智、智弁和歌山の高嶋仁、明徳義塾(高知)の馬淵史郎…。「監督会議に行っても、そうそうたるメンバーがいた。自分が学生のときに監督だった方ばかり。ぼくが一番若いぐらいで圧倒された」と西谷。最初の甲子園は、阪口慶三(現岐阜・大垣日大監督)が率いる東邦(愛知)に初戦で退けられた。

 ただ、新時代に向かって歯車は回り始めていた。中田翔(現日本ハム)が入学した平成17(2005)年からの3年間は優勝も狙えると思ったが、3度の甲子園はいずれも優勝チームに負け続けた。平成17年夏は、田中将大(現ヤンキース)らを擁する駒大苫小牧(北海道)に準決勝で惜敗。翌年夏はハンカチ王子で話題となった斎藤佑樹(現日本ハム)の早実(東京)に大敗し、平成19年のセンバツは常葉菊川(静岡)に屈して8強どまり。この悔しさをバネに優勝したのが平成20年の夏だった。

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 ただ、この時の優勝は選手が予想外に成長した結果でもあった。「もっと強くしたい」。その思いで同学年の門馬に電話をかけたのが平成23(2011)年の夏だ。

 大阪では、夏の大会の直前は府内の学校同士でしか練習試合が組めないというルールが、この年から解除された。西谷は、その時点のチャンピオンチームと試合をしようと思い立った。門馬の東海大相模は春のセンバツ王者。「チームの調子が上がらないので刺激がほしかった。(門馬には)ガチンコでやってくれと頼んだ」と西谷は振り返る。

 当時、藤浪晋太郎(現阪神)は2年生だった。東海大相模の学期末試験が終わった日の午後に1試合だけ。同学年監督のこの執念は、門馬にとって衝撃だった。「新幹線で来て、試合が終わったら帰っていく。そんなことをするのを見て大いに刺激を受けたし、あれが僕に火をつけました」

今夏の甲子園で優勝しナインから胴上げされる大阪桐蔭・西谷監督(伊藤遼撮影)

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 翌年、大阪桐蔭は春夏連覇を達成。両校の練習試合は夏の定期戦となった。「甲子園は大阪にあるから、こっちから行かせてくれと言いました」と門馬。その後は、東海大相模が「プレ甲子園」として大阪に遠征している。互いに刺激し合い、「いつか絶対に甲子園の決勝でやろうと言ってきた」(門馬)というほどになった。

 今春のセンバツ決勝では、この2人が初の顔合わせ直前まで行った。ともに準決勝進出。東海大相模が智弁和歌山との打撃戦に競り負けて実現しなかった。「まだ早いということですかね」と西谷。平成時代に躍進した「44年会」監督の夢の決勝対決は、新時代に持ち越された。

  (小原栄二)

 「44年会」は関東と関西で、それぞれ始まった。関東では10年ほど前、社会人野球の東芝で同期だった上武大監督の谷口英規とセガサミー監督の西詰嘉明が、同学年を誘って集まったのが始まり。数年前には50人ほどが集まり、定例会となった。大阪では、社会人の選手らが居酒屋に集まったのが始まり。ともにオフの定例会が恒例となり、このオフは大阪が12月中旬に行われ、東京では来年1月に開かれる予定だ。

エリートではなかった大阪桐蔭監督

09年のセンバツを制覇した清峰・吉田洸二監督(佐藤哲紀撮影)

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 「44年会」のメンバーが高校生だった昭和末期には、体罰がまだあった。全面的に体罰が禁止されるようになった時代に指導者となった西谷や門馬らは時代の流れに順応。西谷は「愛のムチが通じる時代に育ってきて、それが通じなくなった。最初は難しさを感じたが、時間をかけ、じっくり話すことを学んだ」と実感を込める。

 恩師の野球を受け継ぎながらも、方法を変えたのがこの世代だ。門馬は「サガミの野球は、原貢野球。つなげていかないといけないものはつなげていく。根底にあるものは変わらない」と強調。持っているのはスマホではなく携帯電話のままだが、「社会が変わっているのに、僕だけが止まっていたらズレる。新しいものはどんどん取り入れる」と意欲的だ。

 西谷、門馬のほか、「44年会」で春夏の甲子園を制したのは清峰(長崎)をセンバツ優勝に導いた吉田洸二(現山梨学院監督)と、昨夏の甲子園で優勝した花咲徳栄の岩井隆を加えた4人。共通点は、選手として甲子園の土を踏めなかったことだ。

 「エリートだったり、元プロだったりは自分の野球を捨てきれないところがある。エリートじゃないのがいいところは、いろいろなものを受け入れられるところ」と岩井。監督絶対のスパルタから、選手の個性も生かす指導に順応できたカギは、ここにあった。

【甲子園データ】山口は30年間で17校が夏の甲子園に出場

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 平成時代に行われた30回の夏の選手権大会で、最も多くの学校が甲子園に出場している都道府県は北海道の22校。2位は東京の20校だが、ともに毎年2校ずつが出場している。実質的には17校が出場している3位の山口が、最も多彩な顔ぶれを甲子園に送り込んでいるといえる。静岡、三重なども多い。逆に、少数校による寡占状態となっているのが奈良と高知。奈良は天理と智弁学園で計26度、高知は明徳義塾、高知商、高知で計28度を占める。宮城、和歌山、鹿児島、石川も2〜3校が夏の代表校をほぼ独占している。

 

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