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【スポーツ史 平成物語】

0−3の9回2死が「チャンス」 黄金時代築いた落合の暗示

2018年5月11日 紙面より

優勝を決め、ナインの記念写真を撮る荒木(左下)=2004年10月1日、ナゴヤドームで

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第1部 ドラゴンズ編(4)

 中日の球団史上、一番の黄金期といえば落合博満が監督を務めた2004(平成16)年からの8年間を挙げるファンは多いだろう。その間、リーグ優勝4度。07年には53年ぶりの日本一も達成した。現役時代から「オレ流」の異名をとった男。「10%底上げ」宣言から始まった独自の常勝軍団作りを振り返り、その秘訣(ひけつ)を探る。 (文中敬称略)

 球団初の連覇を含むリーグ優勝4度、クライマックスシリーズ(CS)を勝ち上がっての日本一が1度。さらにすべてのシーズンでAクラス。落合博満が監督としてチームを率いた2004年からの8年間は、中日の球団史に最強の時代として記された。

 就任が決まった03年10月17日。落合は秋季練習が始まったナゴヤ球場に選手、スタッフらを集め、こんな所信表明を口にした。

 「1年間このメンバーで戦っていきます。トレードも、解雇もありません」

 「一人一つでいいから長所を見つけ、欠点はほかの選手が補う」

 「今は一人として、いらない選手はいない。この1年で選手が何を表現してくれるのか、何を見せてくれるのか」

オープン戦で本塁打森野(左)の頭を笑顔でなでなでする落合監督。右は荒木=2004年3月5日、ナゴヤドームで

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 選手たちは何を考えたのか。落合の監督就任から不動の主力になった荒木雅博は「自分にできることをやろう、とにかく走ろうと思った」と振り返る。落合監督の就任が決まった直後は「3冠王を3度とった人が監督になる。打てなきゃダメだろうな。自分はレギュラーはないな、と考えていた」という。だが、実際に打ち出した方針は事前の想像とは違った。

 「1軍と2軍、全体を使う野球をやるんだなと思った。だったら自分はとにかく走塁を生かそう。走ることと守ること。ここをしっかりやっていこうと考えた」

 03年シーズンに16盗塁をマークしていた荒木は、04年には39盗塁と倍以上に数を増やした。守っては、04〜09年まで6年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。

 打撃。それも速球にはめっぽう強い、という持ち味を生かしたのは現2軍打撃コーチの森野将彦だ。04年、代打で35打数13安打、打率3割7分1厘の数字を残した。相手バッテリーのマークが厳しくなる勝負どころでの代打としては異例の高打率。森野は「暗示にかけられていた」と語る。

 ベンチでスタンバイしていると、落合からいつも出番を予告されていた。「この試合はこれからこうなって、次にこうなって、この投手が出てくる。そこで代打でいくぞ、と言われる。実際その通りになる」

 左の代打として起用されるのは、主に速球派の右投手に対してだった。読みが次々と当たり、予想通りの展開で出番がやってくる。そこで起用されるということは、打てる確率が高いから。打席に入る時点で「打てる」という「暗示」にかかっていたという。

 監督就任2年目になっても「暗示にかかっている状態は続いていた」と森野。象徴的だった打席が05年4月6日のヤクルト戦(神宮)。先発の左腕・藤井秀悟に14三振を奪われるなど8回まで無得点。ところが0−3の9回、3番手の右腕・五十嵐亮太から同点3ランを放った。

 暗示にかかっていたのは、森野だけではなかった。森野が打席に向かうとき、走者は2人いたが、すでに2死。なのに、指揮官の読み通りに動く展開に、ベンチは「チャンス、チャンス」と盛り上がっていたという。

 森野はその後、中軸を打つ不動の主力に成長した。代打からチャンスをものにしたのだが、一つの節目は「2月1日の紅白戦」だった。落合監督のもとで最初のキャンプを行っていた03年秋、選手たちに、翌春キャンプ初日に紅白戦実施の方針が告げられた。

 通常はキャンプインから徐々に体をつくり、実戦に入っていく。それが、いきなりの紅白戦。森野は「その選手がどんな準備をしてきたのか。(自主トレを)やってきたのか、やってこなかったのか。そこを見極めるんだな」と感じたという。「チャンスだと思った」。しっかり準備して臨めばアピールになると奮起した。

リーグ優勝のビール掛け会場で落合監督(右)らと盛り上がる川上 =2004年10月1日、ナゴヤドームで

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 当時のエース投手、川上憲伸も「自分的にはプラスに考えられた」と歓迎した一人だった。チーム内で確固たる地位を築いてはいたが、ケガをした後だったため、オフも練習を続けるつもりでいた。早めに実戦があれば、回復具合も計れるという事情もあった。

 だが、決して歓迎する選手ばかりではなかった。例年より仕上げが2週間ほど前倒しになる。その意図の説明が選手たちにはなく、不満の声も漏れた。とくに繊細な肩の仕上げが求められる投手陣には一部、不穏なムードが漂ったのも事実だ。

 それでも結局は、多くの選手が例年以上にオフも自主トレに励むことになった。予告通りに2月1日に紅白戦を行い、川上も投げた。過去3年間登板がないにもかかわらず開幕投手を務めた川崎憲次郎も、白軍の先発として投げている。

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 監督就任会見では「今の力を10%底上げすれば、トレードやFAの補強は必要ない。十分優勝を狙える」と言い切った。次々と打ち出される「オレ流」方針に、選手たちはそれぞれが考えて対応した。結果は1年目にいきなり優勝。「今思えば、僕らはたぶん乗せられていたのだと思う。上手に乗せられて、あのシーズン優勝できたのだと」と川上が当時を振り返る。

 まずは、とことん考えさせる。そして一芸の尊重。黄金時代の礎となったのは、決して派手さはないが自分のプレーに自信とプライドを持った職人たちだった。落合マジックのタネを明かせば、自信と役割意識の植え付けではなかったか。そう考えれば、森野や川上が「暗示にかけられた」「乗せられた」と言うのもうなずける。 (特別取材班)

話題さらったオレ流キャンプ

 就任1年目のキャンプ初日、2日目に故障者以外全員参加の紅白戦を実施した落合だが、それ以外にも“オレ流”キャンプで話題をさらった。

 まず、それまで4勤1休が慣例だったキャンプ日程を最初は8勤。第2クール、第3クールは6勤とし、一カ月間のキャンプ休日は3日のみ。一方で川相昌弘、立浪和義、福留孝介ら一部の主力、ベテランについては本人任せの白紙メニューが渡された。

 また、初の対外試合となった韓国SKとの練習試合では、落合は監督室にこもりっきり。選手交代も野手では代打が1人出たのみで「練習試合の目的は勝つことじゃない。選手が我々の目の前で、何を見せてくれるか。1試合丸々の中で」と話した。

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開幕まさかの川崎でチーム団結

 世間をアッと驚かせたのは、04登板のなかった川崎だった。実は、落合が「開幕投手・川崎」を決めたのは年も明けたばかりの1月3日。直接、川崎に電話を入れ「お前に任せた」と伝えていたという。

 「このチームを変えるために必要だった。チーム全員で、先発した彼の背中を押してやることがな」と話した落合。試合は川崎が2回につかまり5失点。この回途中でマウンドを降りたが、遠藤政隆以下5人の中継ぎ陣が無失点でつなぎ、その間にチームも逆転。最後は新守護神の岩瀬仁紀で逃げ切った。開幕戦での5点差逆転勝利は69年の球団の歴史でも初のことだった。

 

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