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【スポーツ史 平成物語】

星野が泣いた大豊も泣いていた ドーム野球へ覚悟のトレード

2018年5月10日 紙面より

セ・リーグが開幕、中日―横浜の第1戦が行われた満員のナゴヤドーム=名古屋市東区

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第1部 ドラゴンズ編(3)

 「平成」はプロ野球の球場環境が大変貌した時代でもあった。中日の本拠地も1997(平成9)年にナゴヤ球場からナゴヤドームへ。突然、広くなった新居は竜ナインを容赦なく苦しめた。最下位から始まったドーム時代の幕開け。大変身を遂げたチームが11年ぶりにセ界の頂点に立ったのは、その2年後のことだった。今回は闘将・星野の「平成の大改革」にスポットを当てる。 (文中敬称略)

 ドーム元年も翌日からの横浜2連戦(横浜)を残すのみとなった1997年10月4日。監督の星野仙一はチームを離れ、午前中の東京行き「のぞみ」号のグリーン個室に腰を下ろしていた。向かいの席には球団代表補佐の児玉光雄。新幹線が名古屋駅のホームを滑りだすと、星野がおもむろに口を開いた。

 「今朝、ヨッさん(阪神の吉田義男監督)から電話があった。この話、オレはGOだ」。“この話”とは、大豊泰昭のトレードに関するものだ。夏前に阪神側から打診のあった商談は中日から大豊と捕手の矢野輝弘。阪神からは外野もこなせる捕手の関川浩一、遊撃手の久慈照嘉という複数トレードに発展し、交渉も大詰めを迎えていた。

 その日のうちに星野は横浜のホテルの自室に大豊を呼んだ。「お前に選択肢はない。請われていくんだ。阪神で勉強してこい」。突然のトレード通告に大豊の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。伝える星野も泣いていた。

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 わが国初のドーム球場として東京ドームが開場したのが88年。元号が「平成」に変わると福岡、名古屋、大阪にドーム球場が相次ぎ完成した。この流れがもたらしたのは球場の拡張。両翼90メートルが標準だった日本の各球場はメジャー球場並みの両翼100メートルにスケールアップした。

 星野が監督として中日に復帰したのがナゴヤ球場最終年の96年。前年、借金30の5位に沈んだチームを、いきなり2位に引き上げた。原動力は179本塁打(リーグ1位)、641得点(同2位)をたたき出した打線。だが、翌年のドーム元年に夢を膨らませる周囲をヨソに、星野は大きな危機感を抱いていた。

 「一発に頼ったナゴヤ球場の野球じゃ、ドームで通用しない。いかに投手を中心とした守りの野球ができるかだ」

 変化する球場環境を4年間、ネット裏から見てきた星野の確信に近い予測だった。ナゴヤドームは両翼100メートル。中堅122メートル。さらに外野には4.8メートルのフェンスがそびえ立つ。それでも星野は不安を胸にしまい込み、ドーム元年に臨んだ。「みんなドームでプレーしたいと頑張ってきた。1年は見てやる」。情の男らしい1年間の執行猶与だった。だが星野の予測は見事に的中する。

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 ナゴヤ球場ならスタンドに届いていた打球はナゴヤドームの広さと、高い壁に次々とハネ返された。本塁打(115本)、得点(510)とも激減し8月以降、下位に低迷した。もがく打線の象徴となったのは前年、39本塁打でタイトルを獲得した山崎武司と、38本塁打で続いた大豊だった。この年、2人で31本(山崎19、大豊12)。ナゴヤドームでは山崎が9本。大豊に至っては、わずか1本に終わった。山崎が当時を振り返る。

 「タイトル取って次の年。『最低30本』と思っていたから、キツかった。打っても入らん。いい当たりがフェンス直撃。そのたびに『クソッ! ナゴヤ球場だったら…』と考えてしまい、自分の打撃を狂わせた感じでしたね」

 打撃だけではない。外野手の山崎には、本拠地の広さは守りの面でも大きな負担となった。

 「走る範囲が全く違ってくる。それにカットまでの距離がメチャクチャ遠く感じた。ノックやってるときから『エラいなぁ』『こりゃ、野球が変わるな』って…」

 2人の長距離砲同様、ひざに持病を抱えるパウエルも広くなった本拠地に苦しんだ一人だった。前年まで外国人では初の3年連続首位打者に輝いた安打製造機に戦力外が告げられたのは8月30日。星野が大豊放出を決めたのも、この頃だった。

 「そりゃ大豊はかわいいよ。個人としては出したくない。でも、山崎と2人、一塁で使うわけにはいかんだろ。このままじゃ大豊も山崎も死ぬ。チームも変わらん」。第1次政権の88年に練習生として預かり、手塩にかけ育て上げたのが大豊だった。そのまな弟子との決別こそ新時代を見据えた星野の揺るぎない決意と覚悟の表れであり、ナインへの強烈なメッセージだった。

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 「こういう成績(最下位)は天から授かったもの。そこそこの成績じゃチーム改革なんて、できやしない。今年がドーム元年。これからがドーム野球の第一歩だ」

 星野のこんな号令でスタートした98年。2年目ナゴヤドーム開幕戦のスコアボードに並んだ先発メンバーで、2年前と同じポジションで出場したのは捕手の中村武志一人。この年、2位に順位を上げたチームは翌99年、11年ぶりにセ・リーグの頂点に登り詰める。

 本塁打こそリーグ5位ながら、本拠地の広さを生かした二塁打(リーグ2位)、三塁打(リーグ1位)の多さ。そして、ともにリーグ2位の盗塁、バントを絡めた多彩な攻撃と、投手を中心とした守備力で勝ち取った優勝だった。ドーム元年からわずか3年。星野を胴上げする選手の顔ぶれも、野球のスタイルも大きく変わっていた。

 今の中日は5年連続Bクラスという過去に例をみない泥沼にあえいでいる。天が授けてくれたチャンスを逃し続けてこなかったか? 20年前の星野の言葉に、ふとそう思った。 (特別取材班)

第5戦で右前へ日本シリーズ初安打を放つ関川=1999年10月28日、ナゴヤドームで

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リーグ優勝導いた水を得た関川

 ナゴヤドームを本拠地とし水を得たのが、大豊らとのトレードで竜の一員となった関川だ。阪神での7年間、規定打席到達は95年の一度きり。それが中日では98年に打率2割8分5厘。99年はリーグ2位の3割3分をマーク。守っても広い守備範囲で投手陣を助け、リーグ優勝に貢献した。

 「僕にとって、ナゴヤドームはプレーしやすい球場でした。人工芝は球足が速くなる分、野手の間を抜けやすい。甲子園よりヒットゾーンが広くなったという感覚でしたね。それに走りやすい。外野一本で勝負させてもらえたのも大きかったと思います」

 ナゴヤ球場最終年の96年は総盗塁数わずかに36。2桁盗塁さえ1人もいなかったが、98年にはリーグ最多の91盗塁。翌99年には李鍾範が24盗塁。関川も20盗塁。中日で複数の選手が20盗塁以上を記録したのは66年(中暁生、高木守道)以来33年ぶりのことだ。

 パワーよりスピード。攻撃より守り。生まれ変わったチームにとって、ナゴヤドームの広さは「敵」ではなく「味方」になった。

矢野は正捕手で虎18年ぶりV

 大豊獲得に動いた阪神も、中日と同じように広い本拠地に苦しんでいた。甲子園のラッキーゾーンが撤去されたのが91年12月。本塁打数は92年から5年連続2桁。97年に103本塁打したが、それでもリーグ最少。チームも93年から5年連続Bクラスと低迷した。

 得点力不足解消へ、大豊に加え中日を自由契約となったパウエルも獲得。98年の開幕は4番・パウエル、5番・大豊で臨んだが本塁打量産、得点力アップとはいかず、この年は最下位。2001年まで4年連続最下位、Bクラスも02年まで10年続いた。その阪神が18年ぶりのリーグ制覇を果たしたのが中日を退団した星野を新監督に迎え2年目の03年。正捕手として優勝の立役者となったのは、97年のトレードで阪神に移籍していた矢野だった。

 

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