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【スポーツ史 平成物語】

うちな一の涙と感謝 沖縄に初のセンバツ優勝旗

2018年12月18日 紙面から

沖縄県勢初の甲子園制覇を果たし、市民の歓迎の中、優勝旗を手に那覇空港に到着した比嘉寿光主将ら沖縄尚学ナイン=1999年4月5日

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第7部 アマ野球編(1)

 「スポーツ史平成物語」の第7回はアマチュア野球編。この30年間でプロとの垣根が劇的に低くなった一方で、停滞した経済の影響を受けた社会人野球はチームの廃部が相次いだ。甲子園の高校野球は複数投手の起用が主流になり、タイブレーク制を導入するなど少しずつ形を変えながらも隆盛を誇っている。地域格差がなくなったことも特徴のひとつ。第1回は平成11(1999)年春の第71回センバツ大会で県勢初の全国優勝を遂げた沖縄尚学の、活躍と意義を振り返る。 (文中敬称略)

 沖縄尚学ナインが「快挙」を実感したのは、紫紺の優勝旗を手にした翌日の4月5日午後だった。飛行機で那覇空港へ凱旋(がいせん)。現在とは比べものにならないほど小さなローカル空港に、約1000人の県民が出迎えた。主将だった比嘉寿光(37)=現広島編成・広報担当=は次のように振り返る。

準決勝のPL学園戦で延長12回を1人で投げ、212球目で見送りの三振を奪い試合終了、決勝進出に雄叫びを上げる沖縄尚学・比嘉公

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 「優勝旗を持って、監督の次に到着ロビーへ出て行くと『こんなに人が集まるんだ』と感動した。バスに乗っても、学校までの道中ではたくさんの人が手を振っていた。パレードみたいでスターになった気分だった」

 平成の怪物と呼ばれた松坂大輔(現中日)を擁した横浜が、春夏連覇を達成した翌年。悲願だった沖縄県勢初優勝は、決して前評判の高くなかった普通の高校生が成し遂げた。1回戦は、大会初日の第2試合で比叡山(滋賀)と対戦。本格派右腕の村西哲幸(のち横浜)に3安打、10三振と抑えられたものの、7回にスクイズで挙げた1点を左腕の比嘉公也(37)=現沖縄尚学高監督=が3安打完封で守った。

 準決勝ではPL学園(大阪)と延長12回の死闘を繰り広げた。2回戦でベースカバーの際に右足首を捻挫した比嘉公は15安打で6点を失いながらも212球で完投勝利。決勝は軟投派右腕の照屋正悟が好投し、水戸商に7−2で快勝した。

 優勝が決まると、甲子園のスタンドに「ウエーブ」が発生した。観客が作り出す大波が2周、3周と回るのを見た比嘉公は「すごいことをやったんだな」と体を震わせた。指笛も鳴りやまなかった。

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 OBも感激に浸った。前身の沖縄高時代、昭和37(1962)年夏の甲子園にエースとして出場した安仁屋宗八(のち広島、阪神)は決勝が行われた4月4日、野球解説の仕事で訪れていた名古屋から急きょ、甲子園に向かった。試合を途中まで観戦し、ナイターのTV中継解説のため名古屋へとんぼ返り。「優勝を知った時は信じられなかった。選手には、心からありがとうと言いたい」と感謝した。

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 沖縄は長く米国の統治下に置かれていた。昭和33年、春夏を通じて県勢初の甲子園出場を果たした首里高が甲子園の土を持ち帰ろうとしたら、植物検疫法に抵触したため土は海に捨てられた。「昔の人は甲子園の土も持ち帰れなかったのか。沖縄が弱い立場にいたんだな、と感じた」と比嘉寿。当時の選手は「外国」を痛感したに違いない。

 県民の政治感覚も他県とは異なる。平成11年春も、監督の金城孝夫(前長崎日大高監督)は「政治のことを聞かれても答えるな」と選手に指示していた。そんな背景があったから、沖縄尚学が初優勝した時に県民は歓喜した。比嘉公は当時の記憶を呼び起こした。

 「いろんな人から声をかけられたが、『おめでとう』ではなく『ありがとう』と言う人の方が多かった。空港から学校へ戻る沿道でも、高齢の人ほど涙を流していた」。どこか、肩身の狭い思いをしていた沖縄県民にとって、全国の頂点に立つことは「悲願」だったのだ。

 この大会の開会式で流れた入場行進曲は、くしくも沖縄県出身の女性デュオ「Kiroro」が歌った「長い間」だった。ピアノのイントロが印象的な落ち着いた旋律。「長い間待たせてごめん…」で始まる歌詞は、沖縄県民への思いを代弁したかのようだった。 (堤誠人)

 沖縄尚学のセンバツ初優勝は、沖縄の高校野球界にも大きな影響を与えた。比嘉寿は「沖縄のレベルが内地(他の都道府県)に負けていないということを僕らが証明した。その後、県外からは沖縄の子を引っ張るという流れが出始めた。気後れがちで引っ込み思案な県民性だったが、県外に出やすくなった」と話す。

 ただ、母校の監督に就任した比嘉公は将来に悲観的だ。平成20(2008)年にはエースの東浜巨(現ソフトバンク)を擁して2度目のセンバツ優勝。その2年後には興南が春夏連覇を達成した。それでも、「今の子は明確に甲子園を意識してやっている。県外へ流出する中学生が、これまで1学年で10〜20人くらいだったのが、今は70〜80人くらいになっている。決して明るい未来はない」と表情を曇らせる。

04年津軽海峡を越えた駒大苫小牧

 いつしか、高校野球界では「優勝旗が白河の関を越えるのはいつか」と言われるようになっていた。春夏を通じて優勝旗が東北以北に渡っていなかった平成16(2004)年夏、第86回全国選手権で南北海道代表の駒大苫小牧が東北地方を飛び越え、一気に北海道へ深紅の大優勝旗を持ち帰った。

済美を破って初優勝を決め、喜ぶ駒大苫小牧ナイン=2004年8月22日、甲子園球場で

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 最大の勝因は5試合で計78安打、43得点の猛打だった。チーム打率4割4分8厘は今も大会最高記録として残っている。準々決勝では横浜の涌井秀章(現ロッテ)から、2年生の林裕也がサイクル安打を記録。決勝では、初陣で春夏連覇を目指した済美(愛媛)に13−10で打ち勝った。

 大会後、選手らを乗せた飛行機が北海道に近づくと、機内では航空会社の客室乗務員が粋なアナウンスを流した。

 「ただ今、甲子園の優勝旗が初めて津軽海峡を渡りました。駒大苫小牧高校の選手の皆さま、おめでとうございます」

 機内は拍手と歓声に包まれたという。

 これは、平成11年春の沖縄尚学も同じだった。比嘉公は「帰りの飛行機では、機長か誰かが『優勝旗が初めて沖縄に渡りました』というようなことを言っていた」と話した。

 沖縄と北海道以外で平成時代に初優勝を達成したのは群馬、福井、佐賀、長崎、鹿児島の各県。まだ優勝旗に手が届かないのは東北6県や山梨、石川、富山、滋賀など計14県だ。

【甲子園データ】甲子園最多勝は大阪桐蔭

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 平成時代の甲子園最多勝は春夏通算で63勝を挙げた大阪桐蔭。春3度、夏5度の優勝回数も他を圧する。2位の智弁和歌山は毎年のように甲子園に出場し、平成6年からの9年間で春夏3度ずつの決勝進出を果たした。3位以下も平成の常連校が並ぶ。昭和以前を含めた通算勝利数1位の中京大中京(愛知)は21勝で21位タイ、2位の龍谷大平安(京都)は30勝で11位、3位のPL学園(大阪)は28勝で13位タイと10傑に入っていない。

 

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