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【スポーツ史 平成物語】

韓国の英雄からキューバの至宝まで 未知のルートを切り開いた男たち

2018年5月9日 紙面より

入団会見で握手する笑顔の宣銅烈と星野仙一監督(右)

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第1部 ドラゴンズ編(2)

 平成に入って、外国人獲得に向けた新しいルートが切り開かれた。韓国とキューバ。今では珍しくないこの2カ国出身の選手を「第1号」として獲得したのが中日だった。昭和の時代には考えられなかった未知のルート。1995(平成7)年オフの宣銅烈、2002(平成14)年のオマール・リナレス獲得にこぎつけた道とは−。中日のメンツをかけた「平成の開拓史」を振り返る。 (文中敬称略)

 1995年12月20日、中日が心待ちにしていた1枚のファクスが名古屋市中区の球団事務所に届いた。送り主は韓国プロ野球のへテ球団。内容は「韓国の英雄」とも言われた宣銅烈の移籍を認めるというものだった。それは同時に、日韓のプロ野球の歴史に新たな1ページを記す出来事でもあった。

 それまで海を渡ってくる“助っ人”といえば大半は米国人選手。郭源治や大豊泰昭ら台湾出身の選手もいたが、数も少なく、いずれもアマチュア出身者。そんな中、83年に韓国でプロ野球がスタート。当初はレベル的にも、日本の社会人野球程度の評価でしかなかった。この状況に、一人の右腕が風穴を開けた。それが宣銅烈だった。

 89年から3年連続で韓国投手4冠となると、91年に中日新聞社が主催した「日韓親善スーパーゲーム」で初来日。右足痛の影響で登板したのは第5戦のみだったが、当時中日の落合博満ら日本が誇る強打者から5者連続三振を奪う快投をみせた。当然、日本球界はその豪腕ぶりに注目した。

伊藤修

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 「一気に目が覚めた感じだった」と語るのは宣獲得時の球団代表だった伊藤修だ。近い将来、必ず韓国の一流選手が日本や大リーグでプレーする時代が来る。「日韓野球を主催しているのに、巨人とか他の球団に行かれたら、われわれの存在価値はない」。伊藤は言いようのない胸の高鳴りを覚えた。

 宣が、さらにレベルの高い野球への挑戦を望んでいることも関係者から聞いていた。とはいえ、韓国プロ野球選手の国外流出は、過去に例がない。ヘテが容認するのかどうか。さらに韓国の国民感情は? 初めてのことだけに障害も多い。中日の戦略は急がば回れ。親会社が主催する日韓親善スーパーゲームで生まれたパイプを「その時」に備えて地道に太くしていくというものだった。

 93年にロッテと合同チームでソウルへ遠征を行うなど、隔年で日韓の親善野球を開催した。「定期的に交流を図ってきたのはウチだけ」と伊藤。韓国は筋を通すことを重視するお国柄。積極的な交流を行う中で、信頼関係を築いていった。

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 「われわれが国際的に戦う道を中日が作ってくれた」「何かあった時、力を尽くさないと」。4年余りの努力の結果、韓国サイドにも、こんな認識が芽生えてきたという。そして、ついに宣争奪戦に火が付いたのが95年。「日韓親善スーパーゲーム」終了後のレセプションの席上、韓国選抜の一員として来日していた宣が「日本でプレーしたい。できなければ、ユニホームを脱ぐ」と表明したのだ。

 宣獲得は伊藤にとっても5年越しの夢。動きは早かった。現場、フロントの意向を集約し、獲得への意思を真っ先に示し、すぐに身分照会を行った。だが巨人、さらに大リーグの名門、ボストン・レッドソックスも参戦。韓国マスコミは「日本に行くなら、最も伝統のある巨人に行くべきだ」との論調を展開した。巨人OBには、韓国の国民的英雄、張本勲もいる。その張本が巨人との橋渡し的役割をしているとの情報もあり、世論も巨人入りへと傾いていた。

 そんな窮地を救ってくれたのが、伊藤が地道に付き合いを続けてきた韓国でプロ野球球団を経営する財閥トップたちだった。中日の姉妹球団・LGのオーナーだった具本茂(ク・ボンム)LGグループ会長だけでなく、サムスンなど他球団のオーナーたちも中日行きを主張した。「中日以外の球団だと筋が通らない」と強く説得し、ヘテ側も折れて中日入りを容認。12月5日、伊藤はソウルでヘテの球団幹部にあいさつした足で釜山に向かい、一気に仮契約を締結した。

 「宣の獲得は、日本球史に残る出来事だったのは間違いない。積み上げてきたものが最後にものをいった」と伊藤は振り返る。韓国プロ野球選手として初めて海外挑戦を果たした宣の契約条件は、球団間の移籍金が3億円。本人との契約金が5000万円。年俸は2年総額2億5000万円に、上限5000万円の出来高がついた。そんな金銭面とは別に、宣の入団は、韓国と中日のパイプを一層太くした。

 宣の中日での活躍を見た韓国プロ野球の後輩、李鍾範が98年、サムソン・リーも同年シーズン途中に「宣先輩がいるから」と、宣が切り開いた日韓ルートをたどって中日入り。11年ぶり、平成初となる99年のリーグ優勝は李が打線のリードオフマンを務め、サムソンは貴重な左の中継ぎ。そして宣が不動の守護神に君臨し、もたらしたものだった。 (特別取材班)

 ▼宣銅烈(ソン・ドンヨル) 1963年1月10日生まれ、韓国・光州市出身の55歳。光州一高から高麗大、韓国化粧品をへて、85年にヘテ(現起亜)に入団。韓国での11年間の通算成績は367試合、146勝40敗、132セーブ、防御率1.20。96年から99年まで中日に在籍。日本での成績は通算162試合、10勝4敗98セーブ、防御率2.70。現在は韓国代表監督を務める。

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2002年5月、中日への入団が内定した後で笑顔を見せるオマール・リナレス(左)と横山昌弘さん(右)(横山昌弘さん提供)

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 中日が再び、新たな外国人獲得ルートを切り開いたのは02年。「キューバの至宝」といわれたオマール・リナレスの電撃入団が決まったのだ。当時のキューバ人選手の立場は公務員。米国やメキシコに亡命しない限り、政府が交渉の窓口となる。内部には「アマのままで良い」という意識が根強く、金銭面を打診した途端に「話はなしにする」と交渉を打ち切られた日本球団もあった。

 なぜか? 当時のキューバは経済が低迷。その中で、政府が国民のヒーローである野球選手を他国に渡したら…。民衆の怒りの矛先が政府に向きかねない。実際に「国の宝を金で動かしたら国民が騒ぐ」と言われた球団もあった。

 しかし、交渉役を務めた当時の球団調査役・横山昌弘は94年を皮切りに何度もキューバを訪問。仲介窓口の山本英一郎日本野球連盟会長(当時)と懇意だったこともあり、彼らを取り巻く状況を十分、理解していた。リナレスがナショナルチームを引退することをつかむと、こう持ちかけた。

阪神戦の1回、左越えに来日初本塁打を放つリナレス=2002年7月27日、甲子園球場で

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 「金ではありません。彼をスポーツ大使として日本に貸してください」。横山には秘めた思いもあった。リナレスは以前から巨人が興味を示しており、当時の監督、長嶋茂雄は「自分の息子」とまで言っていた。負けるわけにはいかない。ライバル意識が自然と生まれていた。

 「リナレスを獲ったのは一つの意地だった。僕はキューバの選手を取るならば、リナレスしかいないと思っていた」。横山35日間、キューバに滞在。連絡を待ち続けた。この熱意はリナレスにも伝わった。

 「横山さんから『自分を第1号に』という話を聞いて、本当にうれしかった。中日入りは何よりも横山さんの功績です」

 リナレスが当時を振り返り、こう語る。現在は指導者として中日に籍を置き、R・マルティネスら母国の後輩の指導にあたっている。自分と同じように、日本の野球を学んでほしい。今度は自身が、キューバと日本の懸け橋になるつもりだ。

 ▼オマール・リナレス 1967年10月23日生まれ、キューバ出身の50歳。右投げ右打ち。17歳でキューバ代表となり、92年バルセロナ、96年アトランタ五輪での2大会連覇に貢献。04年に中日入りし、04年に引退した。日本での3年間の成績は132試合、打率2割4分6厘、11本塁打、61打点。16年7月に中日の巡回コーチとなり、現在は1軍打撃コーチ補佐を務める。

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