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【スポーツ史 平成物語】

立浪が今中が語った「10・8」 もし時間を巻き戻せるなら・・・

2018年5月8日 紙面より

ゴヤ球場でのV決戦を前に応援で沸き返るライトスタンドの中日ファン=1994年10月8日

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第1部 ドラゴンズ編(1)

 「平成」の時代が終わるまで、あと1年を切った。スポーツ界にとって「平成」とは、どんな時代であり、どんな出来事があったのか。歴史に立ち会った記者の取材メモを元に、最後の1年間を通じて、この30年間を振り返る。第1部はドラゴンズの平成物語。6月に松本サリン事件に震え、7月に日本人初の女性宇宙飛行士・向井千秋を乗せたスペースシャトル打ち上げに沸いた1994(平成6)年。野球ファンのみならず、日本中の目がナゴヤ球場に集まったのは、この年の10月8日のことだった。 (文中敬称略)

 無言の車内に重苦しい空気だけが漂っていた。「今中(慎二)と2人、タクシーに乗ったんですけど、何をしゃべればいいのか…。今中も、そうだったと思います。2人ともずっと黙ったまま」。これが立浪和義の記憶に残っている、あの一日の最後だ。

 名古屋地区でのテレビ視聴率54%。今も「10・8」のひと言でプロ野球関係者、ファンの誰もが分かる一戦がナゴヤ球場で行われたのは1994年10月8日のことだった。長いプロ野球史で後にも先にもない同率首位同士による最終戦直接対決。勝者は巨人。そして中日は歴史的大一番での敗者となった。

 7月16日に首位と最大10.5差。残り12試合の9月17日時点でも首位・巨人から5ゲーム差の3位。だが、ここから連勝を重ねてきた中日は28日の巨人戦にも勝ち7連勝。ついに首位に並ぶ。翌29日の巨人戦が台風の接近で中止となり、追加日程が10月8日に組み込まれた。ともに、その後の4試合を3勝1敗。69勝60敗でピタリと並び、後に伝説となる決戦の日を迎えることになった。

 追いついた勢い。ナゴヤ球場という地の利。そして巨人は3本柱の桑田が中2日。斎藤、槙原は中1日。一方の中日は今中が中5日。しかも本拠地の巨人戦は4年間負けなしの11連勝中、この年も4度の先発全てで完投勝利を飾っていた。評論家はこぞって「中日有利」。立浪も「負けたら…とか、全く考えなかった」と振り返る。

優勝決戦を前に、前夜から列をつくり開門を待つファン=8日午前5時50分、ナゴヤ球場

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 「6日に並んでから、とにかく試合が楽しみ。ワクワクしてました。夜も試合のイメージが頭に浮かんで眠れない。僕も若かったし、自信もあった。自分が活躍して、チームが勝つ。良いイメージだけでしたね」

 ところが初回無死二塁で清水雅治がけん制死。2回の1死一、二塁では二走の中村武志がアウトカウントを勘違い。貴重な先制機、逆転機で自ら流れを手放す凡ミスが相次いだ。「大試合では良いプレーも出るけど、信じられないようなミスも出る。やってはいけないミスが…。それがウチに出てしまった」。こう言う立浪が、その一因に挙げたのが、練習前からの異様な雰囲気だった。

 「普段、お客さんが入ってくるのは我々ホームの練習が終わってから。でも、あの試合は開門を早めたでしょ。すでにスタンドは超満員。そんな中での練習ですから、あれでみんな余計な力が入り、硬くなったところがあったかもしれない」

 徹夜組も含め早朝から観客が球場を取り巻き、開門は通常より5時間以上も早い午前10時30分。いつもと違っていたのは立浪も同じだった。それが3点を追う8回のプレーとなって表れる。この回、先頭で三塁へのボテボテのゴロ。「内野安打になると思った。でも、走っても走っても一塁に着かない感じがしたんです。『これはアカン』と思って…」

 気が付けばとっさに一塁に飛び込んでいた。野球を始めて以来、一度もやったことのなかった一塁へのヘッドスライディング。その瞬間、左肩を激痛が襲う。脱臼だった。立浪の10・8は、無念にもここで幕を閉じた。

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 最初に試合が動いたのは2回だった。前年、日本でも採用されたフリーエージェント(FA)制度で中日から巨人に移籍した落合博満が右翼席に先制弾。3回にも落合の一塁後方に落ちる右前打で勝ち越された。どちらも今中が投じた内角へのストレートだった。

 「一発は甘かったから納得できた。でも、あのポテンヒットは、それなりに投げきった球だったし、打ち取った当たり。それが…。後ろから殴られたような、脚にくるダメージがあった。そこから何も覚えていないんですよ、あの試合は」

 実は中5日とはいえ、今中も万全にはほど遠い状態だった。左肩の異常で登録を抹消されたのが8月28日のこと。最短の10日間で戦列復帰を果たすと、雨天コールドとなった試合も含め先発にリリーフに14試合中6試合に登板。左肩は、また悲鳴を上げていた。

 エースが4回で5失点降板。逆に攻撃陣は槙原−斎藤−桑田とつなぐ巨人の継投に反撃を絶たれた。プレーボールから3時間14分。最後の打者、小森哲也のバットが空を切り、勝敗は決した。

 あれから24年。新聞、テレビをはじめとするメディアが「10・8」を取り上げる度に、当時の中日ナインは苦い記憶と向き合わされてきた。敗軍の将となった高木守道が、普段通りの継投を貫いた自らのさい配への自問をあえて口にしたのは、それから7年が経った2001年のことだ。

 「巨人はローテーション投手をつぎ込んだのに、こっちは普通に中継ぎを投げさせとるんだから、ファンからすれば何だとなる。マサ(山本昌広)だって源治(郭)だって残っていた。だから、やろうと思えば巨人のようにやれた」

 この年のダイヤモンドバックスとヤンキースのワールドシリーズ第7戦。8回に1点を勝ち越されたDバックスは前日、先発で104球を投げたランディ・ジョンソンを投入し、劇的な逆転勝ちにつなげた。そんな試合を目にしたのがきっかけだった。

 この年のダイヤモンドバックスとヤンキースのワールドシリーズ第7戦。8回に1点を勝ち越されたDバックスは前日、先発で104球を投げたランディ・ジョンソンを投入し、劇的な逆転勝ちにつなげた。そんな試合を目にしたのがきっかけだった。

 もし、時間を巻き戻せるなら…。立浪は「カーッと熱くなっていく中でも、冷静な状況判断が必要。そう自分に言い聞かせて試合に臨みますね」と話した。今中は「あの時は割り切りができなかった。でも、あそこからできるようになった。負けたから“割り切る”ことの必要性を考えたと思う」と振り返る。

 時代が変わろうが、永遠に語り継がれるだろう「10・8」。敗者には悔い、反省、教訓が残っている。だが、彼らは決して引き立て役ではない。そこまでの129試合があったから、あの歴史に残る130試合目がある。これも、平成6年の真実だ。 (特別取材班)

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猛追の裏に守道監督への退任通告

マウンドでの指示を終え、ベンチに戻る高木監督(右)

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 9月18日から10月2日にかけ9連勝。「10・8」を演出した中日の快進撃は、ある種、異様な状況で続いた。高木が「優勝してやめられれば一番いい」と突然、報道陣に辞意をもらしたのは6連勝で迎えた巨人戦(ナゴヤ)が雨で中止となった9月27日のことだった。

 実は8月31日、3年契約の最終年だった高木は、遠征先の東京の宿舎で球団社長の中山了から「有終の美を飾ってくれ」と、その年限りの契約打ち切りを伝えられていたのだ。後任には前監督の星野仙一。すでに内諾を取り付け、新体制への移行準備を進めていた。

 そこから始まった猛追。星野がNHK名古屋放送センターで「来季も高木監督がやるべき」と就任辞退の会見を開いたのが10月6日。翌7日には当時の加藤巳一郎オーナーが「高木続投」を明言した。その後の正式要請にも態度を保留した高木が、ようやく続投を受諾したのは決戦から5日後の13日のことだった。

山田喜久夫わずか4球の苦い経験

 わずか4球。それが5年目左腕、山田喜久夫の10・8のすべてだった。5回、2番手で登板したが2−1からの4球目。甘いスライダーを松井秀喜に右中間席まで運ばれた。差が4点に広がる痛恨の一発。そこに、その後の議論も集まった。

 「相手はエースを3人つないだ。なのに何で?…ってことですよね。そんな声は、やっぱり引きずったところはありました」と山田。だが、この苦い経験が教えてくれたこともある。「松井のような左の強打者を抑えるにはシュートがいる」。翌95年、2度の松井との対戦では秋から取り組んだ新球を武器に、いずれも凡打に打ち取った。

 今はナゴヤドームの近くで和菓子店『喜来もち ろまん亭』を営みながら、少年野球の指導も続けている。「10・8を知っているのも親御さん世代になりましたけどね」と笑った。

 

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