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【時代〜プロ野球昭和から平成へ〜】

福岡移転から始まった プロ野球地方への拡大

2019年6月25日 紙面から

南海スカウト会議で、あいさつに訪れたダイエーホークス・鵜木新球団社長(左)と瀬戸山隆三秘書(中央奥)。右は南海・杉浦忠監督=1988年撮影 

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 昭和最後のシーズンとなった1988年、大阪の老舗球団・南海が小売業のダイエーに譲渡され、福岡への移転が決まった。当時、ダイエーで球団買収に動いた瀬戸山隆三(65)=現・千葉商科大客員教授=は、創業者の故・中内功が当初は生まれ故郷の神戸市へ本拠地を移転する方針だったことを明かした。それでも福岡移転へとかじを切った理由とは−。球界の常識を覆すビジネスモデルの構築は、後に進むプロ野球「地方の時代」へ確かな道筋をつけた。 (文中敬称略)

飽和状態だった関西

 87年12月、ダイエー東京本社・事業企画部に勤務していた瀬戸山は、鈴木達郎(当時専務)とともに中内功(当時社長)のもとに呼ばれた。食品売り場を希望して入社し、小売りや食肉のカットなどを手がけてきた若きサラリーマンに飛んだ創業者からの指令−。それは南海ホークスの買収だった。

 「可能かどうか調査してくれるか」

 当時、三和銀行を通じて南海電鉄から球団売却の話が持ちかけられていた。さらに中内の希望は神戸市に建設された「グリーンスタジアム神戸」への本拠地移転。瀬戸山は「中内さんの意向は福岡移転ではなく、生まれ故郷の神戸に恩返しをするためにグリーンスタジアムを熱望していた」と明かす。運命の年となる88年1月に神戸本店へ転勤。南海電鉄などと折衝を重ねて行くうちに、ある疑問を抱くことになる。

瀬戸山隆三(せとやま・りゅうぞう)

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 「阪神さんがいましたから。果たして大阪から神戸に本拠地を移して、経営が成り立つのかというのがまずあったんですね」と述懐した瀬戸山。関西で圧倒的なファンの支持を得ていた阪神タイガース。ただそれ以外の球団は人気、集客の面で明らかな苦戦を強いられていた。南海、阪急、近鉄…。パ・リーグの歴史を彩ってきた強者でもタイガースの人気には及ばなかった。

 「昔から大阪スタジアム、藤井寺球場、西宮球場によく野球を見に行っていたんです。でも、どの球場も閑古鳥が鳴いていた」。同じ兵庫県でタイガースを越えられるチームづくりが可能か。その問いに専務の鈴木と瀬戸山は思案を重ねた。一方、時を同じくして福岡市から誘致の話が持ちかけられた。

球団譲渡が決まり握手する吉村茂夫・南海オーナー(左)と中内功ダイエー社長=1988年撮影

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 魅力的だったのは、同市内で89年に開催予定だったアジア太平洋博覧会の跡地。当時は事後利用が未定となっていた。「そこにドーム球場、ホテル、ショッピングセンターを作れるんじゃないか。野球をしながら新たなビジネスモデルができるかもしれない」。瀬戸山と鈴木の考えは“福岡移転”で固まった。

 中内にお伺いを立てた直後は「神戸一点張りだった」と言うが、冷静な視点を交えた調査結果に「4月ごろに中内さんが軟化して、5月には福岡へ行くことが正式決定した」と瀬戸山は当時を振り返る。日本一立派なドーム球場、隣接する宿泊施設、そしてショッピングセンター。野球を中心とした一体化ビジネス、野球のある街づくりはこれまでの球界の“常識”を覆すものだった。

朝から晩までお祭り

(上)屋根が全開されたヤフオクドーム。スタンドの後方にはヒルトン福岡シーホークが見える=2004年撮影 (下)空から見たドーム。右奥はヒルトン福岡シーホーク=2003年撮影

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 「これからはチケットを売って、広告看板で収入を増やす時代ではない。野球をやる日は朝から晩までお祭りになるように」。地元企業の協力を得るために頭を下げて回った。地元テレビ局ともタイアップし、さまざまなPR戦略を練った。飲食、物販、野球だけにとらわれないビジネスモデルを−。88年9月に南海からの球団譲渡が正式決定すると、すぐさま実行に移した。

 今年でホークスは福岡移転30周年を迎えた。今では球団が福岡の町のシンボルとなり、選手たちは地元企業のPRに一役買っている。平成で最も多く日本一に輝いた実績も重なり、もはや生活の一部となっている。

 移転当初は西鉄ライオンズの流れをくむ土地だったこともあり「ここは稲尾の、ライオンズの場所だ」と地元関係者から反発の声も上がったという。平和台で西武戦が行われれば、8割は西武ファンで埋め尽くされたが、徐々に福岡ダイエーホークスは地域に根付いていった。

 令和を迎えた今、日本ハム、楽天、ロッテと地域のシンボルとなった球団は増えた。関東と関西に集中し、地方球団は広島と中日だけだった30年前とは大きく様変わりした。「ホークスがその先端になったという自負は今でもありますよ」と瀬戸山は言う。

 「地域の活性化、盛り上がり、それは野球の大きな魅力だと思います。野球は他のスポーツと違って、毎日、試合ができますからね」。昭和から平成へ移り変わるころに、新たなプロ野球のあり方を示したフロントマン。そのビジネスモデルはこれからも、球界に受け継がれていく。 (重松健三)

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【へぇ〜】移り変わるオーナー企業

 南海電鉄からダイエーにホークスが譲渡されてからわずか1カ月もたたない10月19日、阪急ブレーブスが阪急電鉄からオリエント・リース株式会社(現オリックス)に譲渡されることで合意したというニュースがプロ野球界を駆け巡った。

 1936年に誕生し、リーグ4連覇、3年連続日本一を達成するなど、関西の名門球団として君臨したブレーブス。だが観客動員の伸び悩み、沿線開発の頭打ち、7億円とみられた球団の赤字などが重なり、鉄道会社が球団を保有するメリットは時代とともに少なくなっていった。

阪急球団53年の歴史に終止符を打ち、ナインとともにファンに別れのあいさつをする上田利治監督(左)=1988年10月23日、西宮球場で

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 当時、球団オーナーで阪急電鉄社長の小林公平は「プロ野球の振興、青少年のスポーツ振興という球団の使命は達成できた。オリエント・リース社から球団譲渡の申し入れを受け、ブレーブスの発展に望ましいと決断しました」と説明。小売業、リース業など昭和後期に台頭してきた企業に託した方がチームの充実を図る上で最善と判断した。その後、平成に入るとIT企業の楽天やソフトバンクが球界へ参入。時代とともにオーナー企業も移り変わりを見せている。

 ▼瀬戸山隆三(せとやま・りゅうぞう)1953(昭和28)年9月18日生まれ、65歳。大阪市大から77年ダイエー入社。ダイエーホークスに出向後、球団本部長、球団代表を歴任。2004年にロッテ球団代表に就任し、06年より球団社長。12年からはオリックス球団本部長補佐、球団本部長などを務めた。

 

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