トップ > 中日スポーツ > スポーツ > 時代〜プロ野球昭和から平成へ〜 > 記事

ここから本文

【時代〜プロ野球昭和から平成へ〜】

星野竜1988年 昭和最後の優勝 消えた祝賀ムード

2019年4月23日 紙面から

昭和天皇の病状に配慮してビールかけを取りやめ、優勝慰労会で乾杯する星野監督(左)ら=1988年10月7日、名古屋市内のホテルで

写真

 昭和という元号で最後にセ・リーグを制したのは、当時41歳の星野仙一監督率いる中日だった。1988(昭和63)年10月7日、優勝マジック1で迎えたヤクルト戦に11−3で勝ち、指揮官はナゴヤ球場の空に6度舞った。しかし、それに先立つ9月19日に昭和天皇が発病。優勝争いの終盤は自粛ムードの中で行われ、取り巻く環境も全く異質なものだった。今回は平成から令和への改元を前に、昭和で最後となった優勝を、チームに関わった人間の証言で振り返る。 (文中敬称略)

ビールかけを自粛

 セ・リーグ制覇を決めた夜。恒例の行事は最後まで“封印”された。ナゴヤ球場から名古屋市内のホテルに移動して行った「優勝慰労会」。乾杯の後に立食メニューをつまみ労をねぎらったが、ビールかけはなかった。

当時のチームや星野監督の様子を語る早川実

写真

 「優勝してもビールかけはないと(当時のマネジャーの)本田さんから事前に入ってね」と語るのは、当時のコーチ補佐兼監督付広報だった早川実(70)だ。パ・リーグ優勝の西武もリーグ優勝時にビールかけはなし。また、中日はシーズン後の優勝パレードも行わないと決めていた。

 「祝賀」という形が姿を消したのはなぜか? 日本を覆った自粛ムードのためだった。9月19日夜、昭和天皇が突然吐血し、その後も下血を繰り返した。重体の状態が続く中「こんな時に浮かれているのは不適切」という理由で祭りやイベントが次々と取りやめとなった。テレビのバラエティー番組も別番組に差し替えられ、CMで井上陽水が発した流行語の「みなさん、お元気ですか」というセリフはすぐ音が消された。

 中日は7月9日からの6連勝で勢いに乗り、29日に首位へ浮上。8月は15勝5敗3分けの快進撃で、31日に優勝マジック25が点灯。9月19日時点で11まで減らしていた。その中で起こった自粛ムード。プロ野球が例外になるわけがない。「ビールかけがないのではないか・・・」という声が上がるようになった。

 「ずっと、そういう話は聞いていたけど」と振り返るのは当時の正捕手で現在は中日1軍バッテリーコーチの中村武志(52)。しかし、選手の間に動揺はなかった。若い選手が多かったチームはとにかく目の前の試合に必死。野球だけに集中しており、ムードという目に見えないライバルは気にならなかった。

「早く決めたい」思い

当時の様子を振り返る福田功

写真

 「昭和63年は優勝が初めての選手が多かったので、とにかく勝てればよかった。ビールかけとかはもうどうでもよかった」と中村。指揮官の星野は冷静な判断を失うことなく、早川の前でこうつぶやいたという。

 「こういうご時世だから、ビールかけは無理やろ」。それよりも、ペナントレース自体の行方がどうなるかを気にしていた。もし、シーズン終了前に“万が一”が起こったら・・・。当時の1軍サブマネジャーで、現在は楽天のプロアマスカウトアドバイザーを務める福田功(65)は星野からこんな言葉を聞いた。

 「ひょっとしたら、野球をやってる場合じゃなくなるかもしれん」「下手すると、ペナントレースが終わってしまうかもしれん」。そこで、昭和天皇の病状の回復とともに、チームの一日も早い優勝決定を願った福田は「チームが勝ったという事実、セ・リーグ優勝の証しは残しておきたかった。だから(チームに)早く“ゴールテープ”を切ってほしかった」と振り返る。

なだれ込むファン

6年ぶり4度目のリーグ制覇を果たし、ナインに胴上げされる中日・星野監督=1988年10月7日、ナゴヤ球場で

写真

 思いは通じた。昭和天皇の病状が一進一退を繰り返す中、9月20日以降の10試合を6勝4敗で乗り切り、マジック1で迎えたヤクルト戦も「一気に決める」との思いで12安打の猛攻。11−3で迎えた9回は、守護神の郭源治が最後の打者・秦真司を空振り三振に仕留めて、リーグ優勝を決めた。しかし、予想外のことが起こった。喜びにわくファンがグラウンドになだれ込み、15人が重軽傷を負う事態。予定していたあいさつなどの優勝セレモニーは中止となり、選手は逃げるようにロッカーに引き揚げ、ユニホーム姿でバスに乗った。星野は怒りを隠しきれなかったという。

 中村は「監督は仕方ないと言っていたけど、(僕たちと)ビールかけができないことを一番残念がっていましたね」。だからこそ、ファンに感謝を伝えることで選手に少しでも優勝の味を感じてほしかった。その親心も幻に・・・。さまざまな感情が心で交錯していたのだろう。星野は慰労会の席でこう語った。「思い切り喜びたいのを我慢するのはつらい」。これは全員に共通する思いだった。 (川越亮太)

【へぇ〜】報道陣も気が気ではなかった毎日 天皇の「Xデー」

1988年当時の報道陣の雰囲気を振り返る吉村功=岐阜市内で(川越亮太撮影)

写真

 昭和天皇の病状に気をもんだのはチームだけではない。ペナントレースの様子を伝える報道陣も同じ。優勝決定の瞬間を全国中継のテレビで実況した元東海テレビアナウンサーの吉村功(78)もその一人だった。

 「会社や球場に行くと『どうなった?』という話から始まったのを覚えていますよ。いわゆる“Xデー”が10月じゃないかと言われていて、万が一のことが起こった場合は野球はどうなるんだとみんな思っていました」

 吉村によると、昭和天皇が崩御した場合、2日間は通常の番組を自粛して報道や昭和史を振り返るという特別編成を組む方針だった。当然、プロ野球の中継より特別番組の方が優先となる。

 だから、当日は中継を開始する直前まで、ご病状を伝えるニュースが気が気でなかったと振り返る。

 日々のアナウンス業務にも気を使ったという。「マニュアルみたいなものができていたような気もするけど、すごくあらたまった放送を毎日やっているような感じがしてね。手探りという感じだったなぁ・・・」。これも貴重な歴史の一コマだ。

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ