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【時代〜プロ野球昭和から平成へ〜】

野茂が変えた日本野球 ソウル五輪日本代表投手コーチ 山中正竹が振り返る

2019年2月26日 紙面から

1988年のソウル五輪で活躍した野茂英雄

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 昭和から平成へ移り変わるころ、日本の野球を根元から変えるエースが出現した。1989年のドラフトで史上最多の8球団から指名を受けた野茂英雄(50)。パワーピッチャーの出現は、五輪など世界大会でキューバなどと渡り合う日本野球の悲願でもあった。時代の転換期を追う第2回は、ソウル五輪日本代表で投手コーチを務めた山中正竹(71)=全日本野球協会会長=が当時を振り返る。 (文中敬称略)

「トルネード」

 山中の記憶には、トルネードの異名を取った投球フォームが鮮明に残っている。投手コーチとして1988年ソウル五輪の銀メダル獲得に貢献。日本代表のエースは翌89年のドラフトで、当時史上最多の8球団から指名を受けた。

 「野茂の存在感というのはこの時代、やっぱりすごかった。彼に追いつけ、追い越せと。その世代の中心はやはり野茂だったと思います」

バルセロナ五輪切符を目指し日本チームを率いる山中正竹監督=1991年9月9日

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最強キューバ

 当時、日本のアマチュア野球は、キューバに学ぶ時代だったという。まだプロの参加が認められていなかった五輪、世界大会などで“赤い稲妻”と称され史上最強チームの呼び声が高かった。

 米国も含め、世界の強豪と戦っていくために−。「国際大会で必要だったのが球速。日本代表の投手になるための指針となったのが『90マイル+サムシング』だったんです」と山中は言う。90マイルは約145キロのストレート。そしてサムシングは必ず空振りを奪える特殊球だ。

決め球の存在

 その基準を満たしていたのが野茂だった。最速150キロ超のストレートに加え、落差の大きいフォークを持っていた。87年に「社会人の新人研修会に参加して、潮崎と2人が光っていた。日本の中心的な選手になれると思った」と山中。90マイル+サムシングの方針と野茂の存在は、140キロ前後で制球力と変化球を重視していた日本球界の伝統を変えた。昭和から平成へ移り変わるころ次々とパワーピッチャーが出現した。

社会人5人衆

 野茂以外にも、剛速球で一世を風靡(ふうび)した与田剛(中日監督)、サイドハンドからキレのいい直球とシンカーを駆使した潮崎哲也(西武編成グループディレクター)。さらに球質の重いストレートとタフな体で当時、史上6人目の通算100勝100セーブを達成した佐々岡真司(広島1軍投手コーチ)や、西村龍次(野球評論家)の名前が挙がる。

(左)広島戦で新人新記録(当時)となる16セーブポイント目を挙げ、安堵(あんど)の表情を見せる与田=1990年6月13日、広島市民球場で(中)オリックス戦でプロ入り初完投で9勝目を挙げた西武・潮崎=1991年9月3日、西武球場で(右)初勝利を挙げたルーキー佐々岡=1990年4月12日、横浜スタジアムで

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89年ドラフト

 くしくも5人は社会人野球で同時期にプレー。平成元年となる1989年のドラフトで各球団から1位指名を受けた。新時代が進むに連れ、彼らの姿はプロ野球界をも大きく変えていった。「あの時の社会人のメンバーは私の中で最強だと思っています。与田のスライダー、潮崎のシンカー。日本の投手の意識改革になったんじゃないかなと思います」と山中は述懐する。

新時代の旗手

 世代の旗手として君臨し、プロ野球界に新たな風を吹き込んだ野茂。その後95年に海を渡り、代名詞のトルネードはメジャー球界をも席巻することになる。ただ新時代の日本球界でも、彼が“パイオニア”となっていた事実は揺るがない。  (重松健三)

台湾戦の延長13回裏2死一、二塁、サヨナラヒットを放ち笑顔を見せる古田(左から2人目)と野茂(右)=1988年9月22日、ソウル・チャムシル球場で

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 社会人にそろった剛腕投手たちを巧みにリードしたのは、後に球界を代表する捕手となる古田敦也(野球評論家)だった。

 ソウル五輪では日本代表として野茂とバッテリーを組み、銀メダル獲得に貢献。山中は「古田の存在というのは、当時のチームにとって非常に大きかった。インサイドワークと強肩。野茂らのいいところを存分に引き出してくれた」と言う。

 当時は「眼鏡の捕手」は大成しないと言われたプロ野球界。立命大からのプロ入りを目指したが、夢はかなわずトヨタ自動車に進んだことで「日本代表としてはすごくありがたかった」と山中は率直な心境を明かした。

 古田も1989年のドラフト2位でヤクルトに入団。野茂らと同じように、球界にはびこる定説を覆し、新時代を切り開いた1人だった。

 ▼山中正竹(やまなか・まさたけ) 1947年4月24日生まれ、71歳。大分県出身。佐伯鶴城高から法政大に進み、東京六大学リーグで歴代1位となる48勝をマーク。住友金属で選手、監督を歴任し、ソウル五輪野球日本代表でコーチ、バルセロナ五輪同代表で監督を務める。2016年にはアマチュア野球発展に尽くした功績により野球殿堂入り。現在は全日本野球協会会長、侍ジャパン強化委員会強化本部長を務める。

【へぇ〜】海外遠征で太れた野茂の「適応力」

 同世代の選手たちに、野茂はどう映っていたのか−。社会人時代、日本代表で遠征をともにした西村龍次は「怪物ですよ。遠征の時にメジャーリーガーの卵、キューバの選手とかが野茂のマネしていたから。あれはすごいですよ」と評する。

 最も驚かされたのは食事面。海外の食べ物を受け付けない選手もいた中、「野茂だけは太っていました(笑)。何でも食えるって」と明かす。

 国際大会で勝ちきれない要因となっていた食事面。「遠征ではやっぱりみんなやせるんですよ。1次予選を突破して、決勝リーグの時はみんなやせて体力が落ちているんです。日本チームは予選はむっちゃ強いはずなんです」と西村は当時を説明する。環境への適応能力は、後にメジャーで活躍する最大の要因にもなった。

 野茂だけでなく、与田、潮崎ら社会人のライバルたちが同時期にドラフト1位でプロ入り。「全日本でもすごいのは分かるし、選ばれてない人もすごいのはみんな分かっていた。プロでも『負けたくない』と刺激になった」と西村は明かし、“世代交代”という言葉を使った。

 プロ野球界を大きく変えるほどのエネルギーを持った選手たちがそろっていた。その世代が時代の変わり目を鮮やかに彩った。

与田がプロで投げる自信となったキューバ戦での先発

 89年5月29日に東京ドームで行われたキューバと日本代表の親善試合。与田→潮崎→野茂のリレーで、パチェコ、リナレス、キンデランら黄金時代の打線を1点に封じて快勝した。

 山中は当時のことを振り返り「直前に野茂が右肩の違和感を抱えていて、代表を外そうかという話にもなっていた。それでも本人が強い意思で出るということで。そういう状況もあったので与田に先発を任せたんです」と明かす。

 与田は3イニング1安打2奪三振の好投。「初めての日本代表だったんですが、彼は大変な喜びようで。チャンスをつかんでくれた。本人のモチベーションになったのと、野茂の刺激になったことは2人にとって、よかったと思うんです」と山中。「プロで投げる自信もついたんだと思います」と語ったように、与田は1年目からストッパーを任され、最速157キロのストレートとスライダーを武器に31セーブをマーク。最優秀救援投手のタイトルを獲得した。同時にパ・リーグの野茂と一緒にセ・リーグの新人王も獲得。先発・与田、リリーフ・野茂としてキューバに立ち向かった2人が、プロでは逆の立場となって光り輝いた。

 

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