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極め人

静岡文化芸大理事長 有馬朗人さん 120歳で世界見届けたい

◆教育予算 増やさねば

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 「末は博士か大臣か」ではなく、博士にも大臣にもなったのが元文部相で元東大学長の有馬朗人さん(89)=東京都世田谷区=だ。少年時代を浜松市で過ごし、現在は静岡文化芸術大の理事長として週に二回浜松市に通っている。年を重ねるにつれ、日本の教育政策への憂いは募るばかりだ。

 −今の日本の教育について思うことは。

 私には後悔がある。文相だった一九九九年。国立大法人化の検討が始まった。法人化を定める法律案には『公費投入額を十分に確保』といった付帯決議をつけた。大学の予算を減らさないようにする狙いだった。だが、うまくいかなかった。条文に書き込むべきだった。

 実際、二〇〇四年に法人化して以降、国立大は運営費交付金が毎年約1%ずつ減らされた。各大は人件費に充てる資金が減り、論文を書く主力である三十代の若手研究者を正規に雇えなくなった。

 政府は教育に予算を増やすべきだ。高等教育への国の投資額を国内総生産(GDP)比で見ると、日本は他の先進国より明らかに低い。ノーベル賞は過去の遺産になるだろう。日本の発表論文数は米欧の後じんを拝している。世界大学ランキングも、私が教育顧問を務めたシンガポールの大学や中国の大学の方が上だ。

 −かつて、浜松で暮らしていたこともある。

 おやじはヒゲタ醤油(東京)に勤めていた。大阪の支店に赴任中、大阪府で私は生まれ、父が別の製造業に転職して一九四二年、浜松市に移り住んだ。西小学校(中区鴨江町)に一年通い、浜松第一中(現・浜松北高)に進んだ。四五年には浜松大空襲があり、中区の広沢にあった家は半分、吹っ飛んでしまった。

 そこで、敷地村(現・磐田市)に疎開した。終戦のとき私は中学三年。当時の中学は五年制だったが、四年修了時に飛び級で武蔵高校(東京都練馬区)に入学した。以来、東京にずっと住んでいる。

 浜松で仕事をすると思っていなかったが、二〇一〇年初めごろ、東京駅を歩いていたら、昔から知る男に会った。川勝平太さんだ。私と川勝さんは、アジアの経済力や文化力を高めようと、中国や韓国の会議に一緒に出席した仲だ。そのころ、川勝さんは静岡文芸大の学長から県知事に転身していた。「あなた、浜松に恩義があるでしょう。理事長になってください」と言われて、断れなかったよ。

 −百二十歳まで生きたいとよく口にしている。

 私が百二十歳になるのはちょうど二〇五〇年。世界の人口は九十億人を超え、食料や水が不足するだろう。エネルギー不足も深刻だ。メディアは原発批判を繰り返すが、代案なき批判は駄目だ。例えば、ドイツは環境に悪い火力発電から再生可能エネルギーに移行したが、その成果は伸び悩んでいる。

 日本より熱心に取り組むドイツですら、そんな調子だ。日本が本気で取り組んでも、原発のエネルギーを代替できるようになるのには何十年もかかるだろう。その結果を見届けたい。

 −理論物理学者として、ノーベル物理学賞の有力候補とみられていた。

 一九九五年は、最もノーベル賞に近いと思われていたが、駄目だった。私の分野とほかの候補の分野が競合して負けたらしい。九八年には私は政界に入り、文相になったので、パッタリと候補に挙がらなくなった。ノーベル賞の選考過程が公開されるのは五十年後。九五年に落ちた理由は、二〇四五年には判明する。百二十歳まで生きたいというのは、そういう理由もある。まあ、半分冗談だがね。

(聞き手・鎌倉優太)

 ありま・あきと 1930年9月、大阪府生まれ。原子物理学の権威。89年から4年間、東大学長。93年、理化学研究所理事長。98年、自民比例1位で参院入り。小渕内閣の時、文相、科学技術庁長官に就任。現在、武蔵学園長、静岡文化芸術大理事長など。俳人としても知られ、俳句結社「天為」主宰。2004年に旭日大綬章、10年に文化勲章受章。

 

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