トップ > 静岡 > あのとき、それから しずおか平成史 > 記事一覧 > 2019年の記事一覧 > 記事

ここから本文

あのとき、それから しずおか平成史

世界遺産・富士山(中) 説得

◆人脈作戦 三保救う

三保松原と富士山=静岡市清水区沖の駿河湾上空で、本社ヘリ「まなづる」から

写真

 二〇一三(平成二十五)年四月三十日、富士山が世界文化遺産に登録される見通しとなった。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)がユネスコに登録を勧告したからだ。関係する各地が喜ぶ中、富士山から四十五キロ南西に離れた三保松原(静岡市清水区)だけは輪から取り残されていた。

 イコモスは富士山の文化的価値を評価した一方、二十五ある構成資産のうち、三保松原の除外を登録条件とした。距離の遠さから「富士山の一部」と考慮されず、消波ブロックで景観が損なわれている点も影響した。

 文化庁は表向き、「三保松原は芸術の源泉、信仰の対象として不可欠。除外は是認できない」としていたが、同庁や外務省の内部では「登録が先延ばしにならないためにも、除外は目をつむろう」という考え方が大勢を占めていた。当時の文化庁長官、近藤誠一さん(73)を除いては。

 三保松原は安倍川から運ばれた土砂が堆積した砂嘴(さし)と呼ばれる地形で、樹齢数百年のクロマツの木が林立する国の名勝。駿河湾にせり出すような半島から見える富士山の姿に、浮世絵師・歌川広重などの芸術家が魅了され、筆を執った。天女が舞う「羽衣伝説」も残る。

近藤誠一さん

写真

 「日本人にとって三保松原は特別。そうあっさりと、おめおめと引き下がれるかという思いだった」

 近藤さんが取った手段は「ロビー活動」。同年六月二十二日にカンボジアの首都プノンペンで開かれる世界遺産委員会までに、委員国二十カ国の代表者や関係者に三保松原の重要性を説く作戦だった。

 可能な期間は現地入りしてからの三日間。イコモスとの考え方に近いドイツなどの欧州四カ国をまず説得する算段を取った。「この四カ国がだめだったら、潔くあきらめるつもりだった」。外務省時代に培った人脈を生かした。

 二十二日の委員会。近藤さんの情熱に応えるかのように、各国の代表者は「精神的、景観的なつながりがあり不可分だ」「距離にもかかわらず、富士山とは重要な関係」と賛同した。イコモスの勧告から「三保松原を除外する」との一文を削除することが全会一致で決まった。

 プノンペン入りしていた川勝平太知事は「覆すことは不可能だと思っていた。すべての国が一体として大事な場所と言ってくれて、胸が熱くなった」と声を震わせた。近藤さんは「目に見えないものにもつながりがある。その価値を見いだしてもらったことがうれしかった」と振り返る。

 三保松原の名所、羽衣の松近くでホテルを経営するおかみの遠藤まゆみさん(61)も喜んだ一人。ただ、「登録されてもいばらの道」と覚悟を決めていた。

 三保松原の松は、かつて半島を埋め尽くすほどの数があったが、戦後の伐採や工場立地による環境汚染で減少。遠藤さんは「今では全盛期の百分の一以下だ。天女も嘆いている」と憂う。登録前から松の保全や文学研究に力を注いできた。「何が何でも失ってはならない場所。日本人の心を残してあげないと」

 

この記事を印刷する

中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 読者の方は中日新聞プラスで豊富な記事を読めます。

中日新聞しずおかの記事はこちら

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山
地方選挙

Search | 検索