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あのとき、それから しずおか平成史

B級グルメ(1) 浜松餃子<上>

 平成最後の年がスタートした。世紀をまたいだ三十年、静岡県でもさまざまな出来事があり、変化があった。転換期をシリーズで振り返り、次の時代へのヒントを探っていく。まずは、全国の人々に愛され、正月でも食べたくなるB級グルメたちの物語を。

◆横綱挑戦 いいとも!

2005年6月30日、新生・浜松市を祝うイベントの屋台で、ギョーザを味わう来場者ら=旧浜北市(現浜松市浜北区)で

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 じゅわっ。湯気の立つ鉄板。整列したギョーザに水が注がれると、じゅーじゅーと音を立てながら白い皮に焼き色が付いた。

 まだ「浜松餃子(ギョーザ)」が世に知られていない二〇〇五(平成十七)年六月三十日。浜松市に周囲の十一市町村が編入される前日、旧浜北市(現浜北区)では、新生・浜松市を祝い、日をまたぐイベントが開かれた。目玉の一つがグルメ屋台。全国で人気の「宇都宮餃子」(宇都宮市)と浜松のギョーザを食べ比べるコーナーに長蛇の列ができた。

 「横綱の胸を借りたかったんです」。ギョーザで町おこしを目指す市民ボランティア団体「浜松餃子学会」事務局長の大場豊さん(50)が当時を振り返る。

「浜松餃子」を焼き上げた「むつぎく」の3代目、近藤孝弘さん。1962年創業で、「何十年も通う常連客もいるよ」と笑顔をみせた=浜松市中区砂山町で

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 きっかけは、イベント開催の数カ月前。当時の浜北市、天竜市、浜松市の青年会議所のメンバーが企画を練っていると、メンバーの県外出身の妻がふと漏らした一言。「浜松って、ギョーザ屋さんが多いよね」

 浜松っ子にとって、あまりに身近で気付かなかったが、市内には約三百のギョーザ店がある。戦後、浜松駅前にギョーザの屋台が立ち並んだのが始まり。工業のまちで働く多くの労働者と家族の胃袋を満たしてきた。

 「ギョーザパワーを感じた」というイベント直後、青年会議所メンバーら八人が「浜松餃子学会」を設立。「浜松餃子」が誕生した。

 学会は二つの目標を掲げた。平成を代表するテレビ番組「笑っていいとも!」で司会のタモリさんに「浜松餃子」と言ってもらうことと、米有力紙ニューヨーク・タイムズに「Hamamatsu Gyoza」が載ることだ。

 一つは〇七年春に達成された。学会主催の「第一回餃子まつり」(〇六年十月)で大使を務めたグルメ通の俳優の辰巳琢郎さんが、「いいとも」にゲスト出演することになり、「浜松餃子学会」の名でお祝いの花を贈った。

 放送日、ファミリーレストランの駐車場で、テレビがあるメンバーの車に数人がすし詰めになった。

 贈った花はタモリさんと辰巳さんの後ろに置かれていた。「はままつ…ぎょうざ、がっかい?」。タモリさんが少し首をかしげながら口にした。「い、言ったあーっ!」。車が揺れた。

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 「横綱」の宇都宮餃子に挑戦するときは間もなく訪れた。同年四月、浜松市が政令市になると、総務省の家計調査の対象になり、ギョーザの世帯当たりの年間購入金額(店内の食事、冷凍食品を除く)が算出されるようになった。栃木県の県庁所在地の宇都宮市は既に対象で、全国トップに君臨していた。

 浜松市の最初のデータは〇八年。宇都宮市の四千七百六円に次ぎ、三千六百六十五円で二位だった。一一年についに浜松市がトップに躍り出ると、一七年までに一位は五度。毎年、宇都宮市と競い合い、ニュースでも取り上げられた。「東西のギョーザのまちが確立した」(大場さん)

 平成の世に全国に知れ渡った浜松餃子。大場さんはもう一つの壮大な目標を忘れてはいない。「いつか聖地として、ギョーザ目当てのニューヨーカーたちを呼び込む」。新しい時代は世界が舞台だ。

 <浜松餃子学会> 浜松市のギョーザ好きが集まって2005年7月に設立。浜松餃子を提供する市内約300店のマップ作りや、年に1度の「浜松餃子まつり」の開催などでまちを盛り上げる。ギョーザを販売する店の関係者は加入できない。浜松餃子のブランドが使えるのは「3年以上市内に在住する人が市内で製造したギョーザ」と決めている。

 

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