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静岡連載

音楽の都 10回目の浜コン(上)

 「楽器の街」から「音楽の街」へ。そしていま、浜松市は、より魅力的な音楽文化の発信を目指して「音楽の都」を掲げる。音楽を生かした街づくりの歴史は、浜コンの歩みそのものと重なる。行政や企業、運営団体、ボランティアが力を合わせてきた浜コンの軌跡を振り返る。

◆平成前夜「大きな花火を」

第1回浜コンの会場となった旧浜松市民会館の前に集まる人たち=1991年11月

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 「浜松は音楽文化の街。それを世の中に知ってもらいたい」

 バブル経済が始まった一九八六(昭和六十一)年の春、浜松市役所の市長室。浜松交響楽団(浜響)の副理事長だった鈴木不二さん(80)が、栗原勝市長(当時、故人)に切り出した。「そのためには、高くて大きな『花火』を定期的に打ち上げるのが効果的なんです」

 その五年前から栗原市政は「音楽の街づくり」を掲げていた。楽器メーカーのヤマハと河合楽器製作所を抱える「楽器の街」をさらに発展させ、他都市との差別化を図る。そのために市は、柱となる新たな事業の展開を模索していた。

 一方の浜響は、市より早い七六年に「音楽の街づくり」を理念として掲げ、市内初のアマチュアオーケストラとして発足した。定期演奏会などを通じて、市民に音楽文化を根付かせていた。

 鈴木さんの言葉に共鳴した栗原市長は、即座に本場・欧州の視察を提言。浜響視察団の帰国報告を参考に、市はピアノコンクールの開催を決めた。「ピアノ生産」という、浜松の大きな特徴を「強み」として生かせるからだ。

 時代は平成に変わり、バブル崩壊直後の九一年、第一回浜松国際ピアノコンクール(浜コン)が旧市民会館(はまホール)で開催された。期間中の入場者数は八千四百五十人で、第九回(二〇一五年)の半分以下。「ガラガラで…。予選なんて、千四百人が入る会場に二十〜三十人しかいなくてね」。浜コンを主催する文化振興財団の常務理事を務めた元市職員の斎藤慎五さん(68)=中区=が振り返る。

 九四年に総事業費二千八百六十九億円で、音楽ホールを備えたアクトシティが完成。「バブルの象徴」とも呼ばれたが、駅直結の利便性を生かし、二回目以降の会場として定着した。

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 市長室での会談から三十二年。十回目となる「花火」が今月八日に始まる。第一回から欠かさず見守ってきた鈴木さんは「過去の浜コン優勝者は、ほかの国際コンクールでも高い評価を得ている。浜コンの評判が上がることは、市民の誇りにつながる」。同時に「だれもが浜コンの本当の価値を認めてくれるには、まだ五十年も百年も、かかるかもしれない」とも。花火を成功させることは、それほど壮大な試みなのだ。

 バブル期に全国で流行した企業のメセナ(文化支援)は、その崩壊とともに退潮した。だが浜コンは脈々と歴史を紡ぎ、十回目も前売り券の売れ行きは好調だ。その理由を、第五回から事務を担った元市職員の小木香さん(66)=天竜区=は「地元企業が協賛金などで支え、市民が協力してきた。加えて、世界的権威のある先生方が審査に携わってくれたことが大きい」と指摘する。

 花火を打ち上げ続けることに貢献した「世界的権威」。その代表が、九七年の第三回から審査委員長を務めたピアニストの中村紘子さん(故人)だった。

 

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