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イチ推し

信康 なぜ自刃 家康と確執説も

◆「信長怒り」説 徳川家 名誉のため?

清瀧寺にあり百回忌の際に造られたとされる信康の墓=浜松市天竜区二俣町で

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 戦国時代、若くして自害した悲劇の武将として知られる徳川家康の長男、信康(一五五九〜七九年)。織田信長に謀反を疑われ、家康がやむなく命じたというのが通説だが、最近の研究ではむしろ、家康と信康の父子間対立が原因だったのではといわれている。一体どちらなのか。

 浜松市天竜区二俣町に信康をまつる清瀧(せいりゅう)寺がある。信康が自刃した二俣城の城跡からわずか六百メートル。市が設置する案内の看板には、はっきり「信長の嫌疑にかけられた」とある。家康が駿河で今川家の人質だったころ生まれた。ともに九歳で信長の娘、徳姫と結婚。後に岡崎城主(愛知県岡崎市)になった。

 徳川、織田両家が同盟関係にあったとはいえ、家康より立場が上だった信長の犠牲にされたとのイメージが強い。天竜区では秋のイベントで信康にちなんだ武者行列が披露されたり、着ぐるみキャラ「信康さん」が登場したりとひいきにされている。

 ただ、こうしたイメージは江戸時代以降につくられたようだ。戦国時代史研究の第一人者で静岡大名誉教授の小和田哲男さん(75)は「家康を神格化するため」と背景を説明する。

 小和田さんによれば、通説は江戸期に記された「改正三河後風土記」などに由来する。信康の正室で信長の娘徳姫から、信康が母の築山殿と共謀して敵である武田家と内通していると訴えられ、信長の怒りを買ったとされる。

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 一方、徳川方の史料でも信頼性が高いとされる「当代記」には、信康、築山殿を殺害するよう命令があったわけではなく、家康に判断を任せるという異なる書き方になっている。

 岡崎の信康家臣団と、浜松の家康家臣団との対立が背景にあったとの見方もある。

 築山殿は信長に討たれた今川義元のめいに当たる。夫の家康は信長と同盟を結び、今川を裏切る形になり夫婦仲も冷え込んだ。十四歳ほどで家康のもとを離れ、同じ城で暮らし母親寄りとみられる信康が二十歳過ぎころから自立を図ろうとして、家臣団も対立する中、家康はわが子より自身の重臣とのつながりを重視したとみられるという。

 小和田さんは「家康はもっと手もとに置き育てるべきだった」と考察する。真相が父子間の対立だった場合、家康の名誉に関わり、徳川家にとっては後世に語りづらい。

 清瀧寺の石碑は「徳川三百年の礎となった運命の若武者」と記す。地元で十年以上前から信康を顕彰してきた「信康の会」の大村邦男さん(78)は「若くて史料も少ない。事実は分からないが、生きていたら家康の跡を継いだかもしれない」と思いをはせる。信康の供養のために寺を建立した家康は、どんな思いだったのだろうか。

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島 将之記者(天竜通信部)

 浜松市南区出身の42歳。たまに散歩で清瀧寺を訪れる。2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」に信康が登場し、死の背景をめぐる諸説が気になっていた。今月始まった明智光秀が主役の「麒麟(きりん)がくる」は小和田哲男さんが時代考証を務める。信康の登場はあるのか。家康、信長はどんな人物として描かれるのか、楽しみにしている。

 

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