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松下嘉兵衛の魅力 「先祖」の武将 秀吉と深い縁

江戸時代に描かれた松下嘉兵衛の浮世絵。嘉兵衛についての記録は少なく、肖像画も残ってないという=袋井市提供

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 松下嘉兵衛之綱(かへえゆきつな)(一五三七〜九八年)。静岡ゆかりの戦国武将で、私の母方の先祖でもある(とされてきた)。一時期は豊臣秀吉を家来にしていた、という人物なのだが、知名度はイマイチ…。ご先祖様の魅力を記事で発信するため、嘉兵衛が晩年を過ごした久野城址(じょうし)(袋井市鷲巣)を訪ねた。

 JR袋井駅から北に約五キロ。緑に覆われた標高三四メートルの小さな山が久野城址だ。山頂からは袋井の市街地や江戸時代の旧東海道などを一望できる。市文化財係の水野雅彦主任主査(52)は「久野城は小規模だが交通の要衝。秀吉が嘉兵衛を信頼していたからこそ城主にしたのでは」と推測する。

 嘉兵衛の松下一族は今川家の武将である飯尾氏の配下として、遠江国の頭陀寺(ずだじ)城(浜松市南区)を拠点としていた。武将の逸話をまとめた江戸時代の文献「名将言行録」などによると、嘉兵衛は無名だったころの秀吉を家来にしたという。

嘉兵衛が城主を務めた久野城址。現在は校外学習や花見などで地元住民に親しまれている=袋井市鷲巣で

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 秀吉の出世を描いた司馬遼太郎の小説「新史太閤記」では、嘉兵衛は秀吉に家計の切り回しを任せるなど信頼関係を築いている。だが、水野さんによると「嘉兵衛と秀吉の関係は記録に残ってなく、実態は分からない」らしい。残念…。

 嘉兵衛は今川家滅亡後、一度は徳川家康に仕えたものの、やがて秀吉の家臣に転じた。秀吉が天下を統一した一五九〇年、久野城主として一万六千石の領地を与えられた。当時最大の大名だった家康の二百五十万石と比べると、百五十分の一以下の規模だ。

 久野城主としては、城内の施設や空堀の整備に力を入れたほか、隣接する掛川城主の山内一豊(かずとよ)と一緒に軍船を造った記録が残る。秀吉の没年と同じ九八年、六十一歳の生涯を閉じた。

久野城址で見つかった瓦について説明する水野雅彦さん。渦を巻いたような模様の瓦は、安土城でも見られるという=袋井市で

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 城跡に建造物は残っていないが、袋井市の調査で嘉兵衛時代の城の瓦が発掘されている。瓦の中には、渦を巻いたような模様が刻まれたものも。織田信長の居城、安土城(滋賀県近江八幡市)でも似たような瓦が使われていたそうだ。

 「嘉兵衛レベルの経済力では瓦を使えないはずだから、秀吉の援助があったのでは。二人の関係は良かったのだろう」と水野さん。嘉兵衛はやはり、若き日の秀吉に優しくしていたのかな。心が温かくなった。

 松下家の足跡は意外な所にも。嘉兵衛の跡を継いだ重綱(しげつな)は一六〇三年、常陸国小張(おばり)(現・茨城県つくばみらい市)に転封。この地で考案したのが、人形と花火を結び付け、上空に巡らせた綱で操る「綱火(つなび)」だ。綱火は一九七六年、国の重要無形民俗文化財に指定。毎年八月に地元の神社で奉納があり、にぎわうという。

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 久野城址は小学生の校外学習や、花見のスポットなどとして親しまれている。知名度は低くても、嘉兵衛と松下家が各地に残したものは今も愛されている。

◆難攻不落の久野城

 久野城は15世紀末ごろに、今川家臣の久野氏が築城したという。湿地帯に囲まれていて攻めにくいのが特徴で、武田信玄が攻撃しても落城しなかった。

 松下氏など何度かの城主交代を経て、1644年に廃城。最後の城主となった北条氏重(うじしげ)は、名奉行「大岡越前」として有名な大岡忠相(ただすけ)の祖父にあたる。

(杉原雄介)

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杉原雄介記者

 東京都出身の28歳。ご先祖様の影響かは分からないが、子どものころから歴史好きで、戦国時代や幕末がテーマの小説や研究本を読みあさってきた。県内外の名所旧跡巡りが趣味。

 

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