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浜松歴史のとびら

新津地区の町割り 7町が協力して、堤防「どえ」造り

◆地引き網漁の魚、住民分け合う 

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 浜松市南区の新津地区では遠州灘に面して、七つの町が身を寄せあっています。田尻、法枝、新橋、堤、倉松、米津、小沢渡町です。どうしてこんな区分けになったのか分かりますか?

 辺りは長い間、半農半漁で、江戸時代までは自給自足の生活をしていました。それぞれの町の家や農地は、今の国道1号バイパスより北にありました。

 南は砂が吹き寄せる荒れ地で、人々は「どえ」と呼ばれる堤防、防砂林を造り地域を守りました。時間がたつと「どえ」の南に砂がたまり、その南に新たに「どえ」を造ることを繰り返し、それぞれの町は海へと土地を広げていきました。

 「どえ」は新津地区の人が総出で管理し、三方原から松の苗を運び、堤防に植林しました。松の木が大きくなると防砂林になりました。松林では、落ち葉を集める「ごかき」をし、かまどの燃料にしたり、農地にすき込んで肥料にしたりしました。

 南に広がる遠浅の海岸は、地引き網漁に絶好の場所でした。海岸沿いに、魚の群れが来たのを見つける見張り台を建て、交代で番をしていたそうです。

 新津地区の人々は、海岸沿いに区切られた範囲の中で漁をし、取った魚は食料や肥料にし、他の地域の人に売り、収入を得ることもできました。地引き網は地域ぐるみで行い、利益は参加した人が等分に分けました。

 その一方で、沖を行き交う幕府の御用船などが遭難した場合は、流れ着いた区域の人が救助する責任も負っていました。新津地区では、海岸沿いのどの村(今の町)も土地を持つことで、普段は海から富を得、いざというときは土地の広さに応じた責任を持つことになったようです。

 「どえ」造りや地引き網は、江戸時代だけでなく、明治、大正、昭和と時代を経ても行われていました。

<もっと知りたい人へ>

参考文献:『わが町文化誌 潮かおる浜の里』浜松市立新津公民館編

 

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