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浜松まつり

戦後の復興シンボル守り続け 中区・常盤町御殿屋台

1954年に完成した常盤町の御殿屋台を浜松八幡宮まで運び、撮影した記念写真。白尾さんは前から2列目の左から5人目(白尾守弘さん提供)

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 空高く舞い上がる大凧(おおだこ)とともに、夜の浜松まつりを彩る御殿屋台。浜松市中区常盤町には、太平洋戦争の空襲で焼失した屋台を復活させようと、戦後、寄付金集めに奔走した青年たちがいた。六十年以上にわたって大切に受け継がれてきた屋台は、「平和のシンボル」として今年も町中を駆け巡る。

 旧浜松市の中心部に位置する常盤町。当時の青年会員だった白尾守弘さん(85)は、戦争のまっただ中で少年時代を過ごした。「お祭りなんて雰囲気じゃなかった」と振り返るが、おぼろげながら一度だけ屋台を引いたような記憶が残っている。

 一九四〇(昭和十五)年に造った町自慢の御殿屋台はわずか五年後の浜松大空襲で焼けてしまう。町内も焼け野原と化した。だが町衆のまつりへの熱意は消えず、戦前に他町に譲った屋台を借りて参加した。

 仲間が無事に戦地から帰り、再びまつりをできる喜びにあふれていた。五〇年代に入ると、新しく屋台を造る資金集めに乗り出した。

常盤町の御殿屋台の復活に奔走した当時を振り返る白尾守弘さん=浜松市中区の自宅で

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 再建にかかる費用は約二百六十万円。当時の大卒の初任給が数千円だったことを考えると、決して安くない金額だ。二年間という目標を立て、自治会長が各戸に寄付をしてくれるよう頼んだ。集金には二十人ほどの青年会員が当たることになった。

 最初は快く応じてくれても、徐々に出し渋る家もでてきた。「家庭の内情を聞いたりするとかわいそうになることもあってね…。自治会長に『もう行けません』と訴えたこともあったよ」。度重なる集金に「いつまでこんなことをやるか!」と怒鳴られたこともあった。辛抱強く通い続けた心の内には「さすが常盤、という屋台を造りたい」という思いがあった。

 念願の御殿屋台が完成したのは、五四年。先代の屋台を造った職人が図案を持っていたため、復元することができた。重層入り母屋造りで、周囲には桃太郎一代記の彫刻が施されている。町を縦断する遠州鉄道(赤電)の架線に引っ掛からないよう、少し低めにも造られた。浜松八幡宮へ屋台を引いていき、ご祈祷(きとう)をした後、屋台から餅を投げて祝った。

 白尾さんのまつりへの意気込みは今も昔のまま。待ち焦がれ、浮き浮きしてたまらないという。現自治会長の松本和久さん(71)は「ものすごく大事にして孫の代まで使わないといかん」とかみしめる。戦禍を乗り越えて続いてきた浜松まつりは三日、開幕する。

(相沢紀衣)

 

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