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静岡経済 特集

道を拓く スズキ インド進出の軌跡(番外編) 駐在員の苦労

◆病、暴動…耐えて結実

滞在先のホテルで鈴木修社長(当時、中央左)を囲み、酒を飲んで談笑するスズキ社員=1984年、インド・ニューデリーで(元スズキの中村隆則さん提供)

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 スズキがインドの国営企業マルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ)に出資し、自動車の生産を始めて半年ほどたった一九八四年。工場の管理担当社員として駐在した大石勲(82)は、インド人の従業員に技術を教える日本人指導員らの健康管理に苦心していた。

 一年で最も暑くなる四〜五月には気温が四五度を超えることも。「車の運転中に窓を開けると、ドライヤーの熱風を浴びるようだった」。当時、数十人いた指導員は出張で訪れて半年間にわたって滞在し、後任者と入れ替わったが、気候や飲み水などの違いから体調を崩す人が相次いだ。

 発熱や下痢は日常。中にはマラリアや赤痢、腸チフスにかかる人も。大石はそのたびに彼らを車に乗せ、通訳とともに首都ニューデリー市内のかかりつけ医へと走った。指導員に小まめに予防注射も受けさせた。

 指導員らは市内のサルタージホテルに滞在していた。ニューデリー郊外のグルガオン工場の初代工場長を務めた篠原昭(故人)の発案でインド人のコックを雇い、チャーハンやハムエッグなど日本人に合う食事を作ってもらった。

 八四年十月三十一日、市街地が騒然となる事態が起こる。当時の首相インディラ・ガンジーが自らの護衛によって暗殺された。この護衛がシーク教徒だったことから、ガンジーを支持する民衆が、シーク教徒が経営するホテルや交通機関を狙って暴動を起こし、サルタージも標的となった。大石は「工場から仕事を終えて戻ると、大通りに面したホテルのガラスが投石で割られていた」と振り返る。

 すぐに市内の別のホテルに移り、十日ほどたって当時社長だった鈴木修(88)=現会長=も訪れた。車座になって酒を酌み交わし、危険と隣り合わせの指導員たちをねぎらった。

 八二年のインド出張中に国民車事業を知り、進出のきっかけをつくった江間勉(89)は当初、インド事業のプロジェクトリーダーを務めた。八三年夏まで現地で生産準備を進めていたが、風邪をこじらせた。

 一時帰国しても治らず、自宅のある浜松市内の病院に駆け込んだ。精密検査で脳の血管に問題があると分かり、入院して手術を受けた。「手術後に鈴木社長が『大丈夫か、大丈夫か』と心配してくれた」。この年の暮れの生産開始を前に、後任の篠原にプロジェクトを託し、インドを離れた。

 スズキを定年退職した六十代半ばのころ、江間は旅行でインドを訪れたことがある。ニューデリーの空港を出ると、そこにはかつてとは見違える光景が広がっていた。「まるで、駐車場がそのまま動いているみたいだ」。庶民の手に行き渡るようになったスズキの小型車が、道路を埋め尽くすように走っていた。(文中敬称略)

 =番外編終わり

 (西山輝一が担当しました)

 

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