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静岡経済 特集

道を拓く スズキ インド進出の軌跡(番外編) 出遅れた名乗り

 スズキがインド首位の自動車メーカーの地位を築くまでの歩みを追った九月二十日からの連載「道を拓(ひら)く スズキ インド進出の軌跡」(計七回)。余話として、進出に道筋を付けた担当社員や駐在員らの奮闘ぶりを二編紹介する。

◆社を挙げて巻き返す

1983年にインドに出張したスズキのチーム。右から2人目が江間勉さん、左端が中西真三さん=インド・ニューデリーで(元スズキの中村隆則さん提供)

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 一九八二年一月末ごろ。インド国内を移動する機中で、スズキ取締役海外技術部長だった江間勉(89)が、偶然手にした英字誌「インディア・トゥデイ」をめくると、見覚えのある車の写真が目に飛び込んできた。

 ダイハツ工業の軽自動車「ミラ」。日本で長くスズキの「アルト」と競うことになる車でもあった。インド政府が目指す低価格の国民車づくりのパートナーにダイハツが有力、と記事にある。江間は「何じゃこりゃ」と驚くしかなかった。

 首都ニューデリーに着くと、江間は浜松市の本社に電話を入れた。「大変なことになっているぞ」。日ごろは温厚なのに、しかるような声色だった。受話器を取った当時の四輪輸出部長の斉藤佳男(83)もまた、インドが進める国家プロジェクトは初耳だった。

 江間は、先行していた二輪車の生産準備のためにインドを訪れていた。その報告に向かった工業省で「四輪車の話はありませんか」と尋ねる。西洋風の建物の一階から順に上の階を回ったものの、どの部署も要領を得ない。最後に行き着いた次官が「とりあえず手紙を書いたらどうか」と助言し、国民車事業を担う国営企業マルチ・ウドヨグの連絡先を教えてくれた。

 二月上旬、マルチの仮事務所にスズキから一通の英文書がテレックスで届く。「われわれは海外で四輪車を生産している。インドでもぜひ力になりたい」。斉藤が考えた文章は、隣国パキスタンなどでの実績を基に、排気量八〇〇ccの乗用車やトラックなどを提供できる、とつづっていた。

 マルチの事業責任者だったラビンドラ・チャンドラ・バルガバ(84)は「対話をする準備がある」と返信した。もっとも、疑問も生じていた。「なぜ今ごろスズキが関心を示したのか」

 ダイハツや三菱自動車、フランスのルノーなどとともに、スズキにも八一年夏ごろ、合弁相手の募集を知らせる手紙を送っていた。この年の秋にはバルガバらが東京モーターショーを訪れ、スズキの展示ブースも見学し、現場の担当者とあいさつを交わしていた。

 しかし、それから三カ月ほど音沙汰がなかった。スズキ社内で行き違いが生じていたからだった。マルチが最初に送った手紙は、四輪輸出部にいた中西真三(71)が受け取り、市場開拓を担う別の部署に対応を求めて回した。ところが、そのまま留め置かれ、インド側の動きは上層部まで伝わっていなかった。

 後出しの形で名乗りを上げたスズキは、バルガバからの返信を受けると、三十四歳だった中西をインドへ送る。中西はニューデリー近郊のグルガオンで、国民車の生産を予定していた工場をつぶさに見て回った。

 江間が機中で「インディア・トゥデイ」を目にして一カ月余り。東京・帝国ホテルでバルガバらインド政府の調査団と向き合ったスズキ社長の鈴木修(88)=現会長=は、中西の報告を基に、「コ」の字形の建屋に合ったラインの配置などを詳細に説明してみせた。

 欧州や日本の大手各社に後れを取っていたスズキ。社を挙げて巻き返しを図ったことが、インド進出につながった。(文中敬称略)

(西山輝一)

 

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