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静岡経済 特集道を拓く スズキ インド進出の軌跡(番外編) 鈴木修会長に聞く(上)一九八三年末にインドで自動車生産を始め、市場が拡大する中でも販売首位を維持してきたスズキ。九月二十日から計七回連載した「道を拓(ひら)く スズキ インド進出の軌跡」の番外編として、陣頭で指揮を執り続けてきた鈴木修会長(88)に思い出と展望を聞いた。 ◆「1番」求め猛進
−進出前の経営環境は。 「七〇年に湖西工場を稼働したが、七五年に排ガス規制に対応したエンジン開発に失敗した。他社(トヨタ自動車)からエンジンを分けてもらったが、湖西工場は月産千五百台という惨めな生産が続いた。スズキはつぶれるのではないかとヒシヒシと感じていた」 「七七年には二代目社長でおやじ(義父)の俊三さんが亡くなった。同じ年に創業者の道雄さん、三代目社長でおじの実治郎(じつじろう)さんも病に倒れ、七八年に私が社長になった。今までの考え方では駄目だと、予定したアルトの発売を一年延ばし、起死回生を狙ってコストを抑えた。軽自動車の新車が六十万円台の時代に四十七万円で売り出したら、これが当たった」 「ただ、スズキは最後尾の自動車メーカーだったから、日本ではトップになれない。どこかの国で一番になろうと考えた。従業員の士気を高めるために何とかしたかった」 −八二年三月、インド政府の調査チームが国民車づくりのパートナー企業を探しに来日した。 「僕は米国出張で不在になるからあいさつをしておこうと思って、東京の帝国ホテルに行った。そこで工場建設の議論をした。ホワイトボードを借りてきて、こういった建物のレイアウトでプレス、溶接などのラインを整えるのだと話した」
「一週間後に米国から帰ってくると、チームが日本に残っていてくれたので、浜松に来てもらって打ち合わせをした。その後『お宅に決めた。基本合意を結ぶのでインドに来てくれ』ということで、さあ大変。社内の役員会では『インドで車を造れるのか』という声もあったが、俺が話をして決めたんだから任せてくれと、押し切った」 −基本合意の際、インドを訪れた印象は。 「飛行場の外に出たら、牛が『はじめまして』と迎えてくれた。当時、インドの車メーカーは地場の二社しかなく、見るからに一トンはある車が道をドタバタ走っていた。アルトの方がよっぽど良いとは思ったが、何台売れるかまでは分からなかった」 (聞き手・西山輝一) PR情報 |
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