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静岡経済 特集

道を拓く スズキ インド進出の軌跡(5) 一緒にラジオ体操

◆日本式 チームを育む

スズキ社員とともにラジオ体操をするインド人従業員=1984年、インド・グルガオンで(中村雄一さん提供)

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 早朝の工場や事務所に、ヒンディー語の掛け声が響く。「エク、ドゥー、ティン、チャル(一、二、三、四)」。同じ制服を着たインド人と日本人がラジオ体操で一緒に体を動かす。

 三十五年前から続く一日の始まりの日課は、インド国営のマルチ・ウドヨグがスズキ子会社のマルチ・スズキになっても変わっていない。

 身分に厳しいカースト制度があるインドに、スズキが持ち込んだ「日本式経営」の象徴が労働文化だった。あえて全員が同じ食堂を利用するようにもし、幹部の個室はつくらなかった。

 当初、インド人従業員は「社長まで同じ服を着て食堂で席を並べることに驚き、興奮した」と、マルチ社の現会長ラビンドラ・チャンドラ・バルガバ(84)は振り返る。トイレも同じだった。日本式の「誠実さ」は割とすんなり受け入れられたが、政府から派遣された何人かの幹部は耐えきれず去って行った。

 一九八三年末の生産開始前、首都ニューデリー郊外のグルガオン工場は長く放置され、床は砂で覆われていた。スズキが派遣した準備チームはまず八万平方メートルの建屋の清掃から始めたが、言葉や常識の違いが壁となった。そこで初代工場長となる篠原昭(故人)は「見本」を用意した。六メートル四方ほどの事務室を選んで机を運び出した後、コンクリートの床にホースで水を放って洗浄し、ペンキで塗った。「同じにするように」とインド人従業員に教えると、作業ペースが上がり、設備の搬入が進んだ。

 稼働後も整理整頓の大切さを説く。生産管理の指導役だった鈴木健文(75)は「従業員から信頼されることが第一。日本人が率先して掃除をした」と語る。九〇年代前半にマルチ社の副社長を務めた中村雄一(77)は、日課としてラインを見て回った。「作業員が工具を整えて置くのを見たときが一番うれしかった」

 チームとなって働くことが会社を成長させ、一人一人の暮らしも豊かにする。「スズキの人たちと話し、やっと理解できた」。バルガバは合弁交渉に携わって気づいた。なぜ労働者と経営者が一致団結できるかは、それまで学んだ欧米式経営では分からなかった。

 中村の後任副社長となった小林恒雄(77)は「責任は持つからやってみろと促すと、どんどんアイデアを出してくれた」と話す。現場の班長らの提案から、工場入り口から重い部品を生産ラインまで運ぶローラーコンベヤーを導入したこともあった。

 経済の自由化が進む中、マルチ社では生産を拡大するにつれ、賃上げを求める労働組合とのあつれきも生じるようになった。

 小林は二〇〇〇年、予告なしのストライキに直面した。工場から従業員を閉め出すロックアウトを余儀なくされ、正常化に三カ月を要した。「インド人の管理職とこまめにコミュニケーションを取り、現場で気になる点があれば、すぐに話を聞くことが大切だ」。小林は肌で感じた。

 それでも二カ所目の生産拠点のマネサール工場では、生産開始から七年目の一二年に事件が起こる。労働者らが暴徒化して事務所などを放火した上、インド人の人事部長が死亡し、日本人二人を含む約百人がけがを負った。正規と非正規の雇用条件で異なる待遇の差などが背景にあったとされる。

 インドでの労務問題はトヨタ自動車やホンダも経験している。労組に介入する政治団体も存在する中、教訓を生かした対話が続く。(文中敬称略)

 

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