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静岡経済 特集

道を拓く スズキ インド進出の軌跡(3) 生産への助走

◆水と電気 難敵に挑む

工場内でライン整備の準備を進めるスズキ社員ら=インド・グルガオンで(中村隆則さん提供)

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 古めかしい乗用車やトラック、オート三輪が行き交い、牛やラクダものろのろと歩く。「本当にここでスズキの車をつくれるのか」。スズキの営業担当社員、杉森潤三(76)は、インドの首都ニューデリーの市街地を見て戸惑った。道路も舗装されているものの、両脇の部分は土のままだった。「何十年も昔の日本に来たようだ」

 スズキは一九八二年四月、インド政府と国民車の合弁事業で基本合意した。すぐに生産や営業などの担当者を選抜し、プロジェクトチームを立ち上げた。

 その一人だった杉森は、合弁を組む国営企業のマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ)との間で、ニューデリー郊外のグルガオンの工場を八三年十二月に稼働することを確認した。

 社長の鈴木修(88)=現会長=は基本合意の際に初めてインドを訪れた。スズキ車よりも倍以上の重さ一トン余りの車が市街地を往来していた。「ドタバタとした走りで、アルトの方がよっぽど良い」。ただし、当時のインドは経済の「鎖国」状態にあった。国民の所得水準が低く、どれくらい売れるかは見通せなかった。

 スズキはマルチ・ウドヨグに、株式26%分の約五十億円を出資した。当時の年間利益に相当し、仮に丸々損失が出ても翌年には軌道に乗せて利益を出す覚悟だった。

 生産技術や設備の導入について、マルチ側は全面的にスズキに委ねた。鈴木は事業計画を詰める際、マルチ社幹部のラビンドラ・チャンドラ・バルガバ(84)に告げている。「かつて英国の植民地だったインドでは欧米式の経営になじんでいると思うが、私は分かりません。日本式経営でやりますよ」

 工場の稼働まで一年半ほどの段階で、スズキのチームはまず組み立てラインから整備した。ボディーやエンジンなど、ほぼすべての部品を日本から送り、現地で組み立てる方式をとった。並行して溶接や塗装、プレスなどのラインも整備し、稼働から二年半後に一貫生産できる態勢を整えた。

 チームリーダーを務めた当時の取締役海外技術部長江間勉(88)はコンベヤーなどの搬入を進めながら、たびたび起こる停電に悩まされた。日立製作所製の非常用発電機を手配し、「常用」の電源として使うことにした。工場内の整備に合わせて六台まで増やし、ガス燃料のタービン式自家発電を備える九〇年代まで乗り切った。

 もう一つの課題が水だった。塗装や機械の冷却で車一台の生産に二〜三トンを使う。土を掘ってくみ上げた井戸水は日本の軟水とは異なり、マグネシウムなどを多く含む硬水だった。そのまま使うと配管に不純物がたまる上、塗装をする際にムラが生じてしまう。

 設備担当だった中村隆則(70)はインドに出張するたび、水を牛乳瓶に入れて日本へ持ち帰った。まだ当時は旅客機に持ち込めたことが幸いだった。塗料メーカーと水質の分析を繰り返し、ろ過装置を使って硬質分を取り除くようにした。

 「水を制する者は工場を制する。そう言われるほど水は大切だ」と中村は振り返る。日本と同等の品質の車を生産する準備が着々と進む。 (文中敬称略)

 

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