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静岡経済 特集

道を拓く スズキ インド進出の軌跡(2) 残された工場

◆印首相次男の遺志継ぐ

サンジャイ氏の死後、使われず放置されていた工場の外観=インド・グルガオンで(元スズキの中村隆則さん提供)

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 屋根と壁と柱があるだけ。雑草が茂る土地に立つ工場は、がらんとしていた。三十四歳だったスズキ四輪輸出部の中西真三(71)は一九八二年二月、インドの首都ニューデリーから南西へ約二十五キロのグルガオンを訪れた。周りの平原は「ゴルフ場ができそう」。サルやヘビもいて、自動車を造る環境とは程遠く思えた。

 当時の首相インディラ・ガンジーの次男、サンジャイ・ガンジーが設計した工場だった。英国で自動車工学を学んだ後、七一年に「国民車構想」を掲げて「マルチ・モーターズ」を起こす。インドの発展を夢見たが、八〇年に飛行機事故で三十三歳で死去すると、工場は稼働することなく、放置されていた。

 息子の遺志を継ぎ、母のインディラは会社を国営化する。八一年にマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ)を設立し、海外企業と車を生産する計画を進めた。

「フロンテSS」を試乗するサンジャイ・ガンジー氏=ニューデリーで(スズキ提供)

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 インド初代首相ネールの血を引くガンジー家と、スズキとは縁があった。六九年、亜細亜大の学生や教授らの「アジアハイウエー学術踏査隊」がアジア各地を車で走破した。スズキは軽自動車「フロンテSS」を提供し、二十六歳だった技術系社員の戸田啓三(76)も隊に加わった。総勢七人がボンベイ(現ムンバイ)の港から陸揚げしたフロンテでインド国内を巡った。

 戸田らは二輪車メーカーを訪れた際、社長の息子の結婚披露宴に招待された。政府や財界関係者が集まるニューデリーの会場で、戸田はスズキ車に関心を持った外務大臣から「首相公邸に来てほしい」と打診された。後日に公邸を訪れると歓待してくれたのが、英国から帰国して間もないサンジャイだった。

 サンジャイはフロンテに興味を示し、自ら三十分ほど郊外を運転する。「アトミック(原子力)を積んでいるのか」。冗談を交えて戸田に興奮気味に話した。フロンテのエンジンは排気量三六〇ccと、地場メーカーが製造する一五〇〇ccよりも小さいが、車両重量は半分以下の四百四十キロで、高い馬力をみせた。

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 既に国民車構想を練っていたサンジャイは「スズキと技術提携をしたい」と申し入れる。戸田は話を文書にまとめて本社に航空便で送ったものの、当時のインドは外貨が欠乏していた上、スズキは日本での増産を進めていた時期で、具体化しなかった。

 それから十三年。国民車づくりの合弁相手に、スズキが手を挙げた。中西がグルガオンの工場を視察した後の八二年三月、社長の鈴木修(88)=現会長=が東京でインド側と会談し、サンジャイが生前に描いた協業が動きだす。

 翌四月、鈴木はニューデリーで首相のインディラと面会する。執務室の机に座るインディラの脇に、高さ五十センチにも積もった書類の山があった。決裁に没頭しているのか、うつむいて鈴木を見ようとしない。通訳として同席した西正則(84)は「困った」と焦る。

 鈴木は伝えた。「これから多くの困難が予想されます。それでも、あなたのご子息が残した工場があるので、大変助かります」

 サンジャイの名が出ると、インディラがはっと顔を上げて鈴木を見た。合弁は基本合意に達した。(文中敬称略)

 

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