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静岡経済 特集

道を拓く スズキ インド進出の軌跡(1) 国民車構想

 スズキがインドで自動車生産を始めて三十五年。海外の自動車メーカーとしていち早く進出して以来、販売首位を走り続け、二〇一七年度は日本での二・五倍近い約百六十五万台を売った。日本に次ぐ世界四位の市場で、どう道を拓(ひら)き、土台を築いたのか。歩みと強さに迫る。

◆スズキ、インド合弁で奔走

1982年ごろのニューデリー市内の道路。車とともに馬車も行き交っていた=元スズキの中村隆則さん提供

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 東京・日比谷の帝国ホテルの四階、芝生の庭園に面した「梅の間」に、スーツ姿のインド人の男たちが並ぶ。一九八二年三月十日、政府の調査団と在日大使館の六人が、国家プロジェクト「国民車構想」を掲げ、合弁を組む海外企業を選びに訪れていた。

 テーブルを挟み向かい合うのは、五十二歳だったスズキ社長の鈴木修(88)=現会長=ら五人だった。会談は午前十一時半ごろ始まる。インド国営企業マルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ)の幹部、ラビンドラ・チャンドラ・バルガバ(84)は「われわれは庶民に手の届く価格の車を普及させたい」と語った。市場調査から燃費が重視されており、人であふれる市街地や狭い道が多いインドでは小型車が適している。身長一八五センチほどの細身の男は説明に熱が入った。

 鈴木は「そうですか」と聞いていたが、やおら立ち上がるとホワイトボードの前で絵を描きだした。

 「車はこういった方式でつくる。プレスと溶接、塗装、組み立てのラインが並んで」

 インド側は首都ニューデリー郊外に工場を用意していた。スズキ四輪輸出部の中西真三(71)は事前に視察し、建屋のレイアウトが自社の四輪車工場のように直線形ではなく、「コ」の字形なのを確かめていた。周到に準備したため、鈴木は現地に合わせたラインの配置を説明できた。

 取締役海外技術部長だった江間勉(88)は、バルガバが「スズキは話が早い」と驚いているように見えた。

 二カ月ほど前、江間は二輪車生産に向けてインドに出張中、たまたま読んだ英字雑誌で国民車構想を知る。日本でライバルのダイハツ工業がパートナーに有力、とあった。驚いたスズキは工業省次官の助言に従い、事業を担うマルチ・ウドヨグに手紙を出す。するとバルガバから「対話をする準備がある」と返事をもらっていた。

 バルガバの自著によると、ダイハツは手を引いたが、欧州のルノーやプジョー、日本の日産自動車や三菱自動車、富士重工業(現スバル)にも声をかけていた。調査団は日本で他社とも面会したが、最初から最後まで対応したトップは鈴木だけだった、と後にスズキ側は聞かされた。

 鈴木の胸中には期する思いがあった。石油危機後の七五年、スズキは排ガス規制の強化に対応できるエンジンの開発に失敗し、トヨタ自動車からエンジン供給を受けてしのいだ。それでも工場の稼働率は低く経営危機に陥った。七八年に社長となった鈴木は「何とかしなければ」と動く。徹底したコストダウンで価格を抑えた軽自動車「アルト」を翌年に発売すると、大ヒットして会社は息を吹き返した。

 とはいえ、日本で後発の車メーカーが一番になるのは難しい。「社員の士気を高めるために、どこかで一番になりたい」。新興国に目を向けていた。

 パキスタンでは現地メーカーへの技術援助を通じ、トラックやジムニーを生産していた。八一年には米ゼネラル・モーターズ(GM)と低燃費車の共同開発にも乗り出した。

 インド側との会談は二時間近くに及ぶ。鈴木は夕方、GMとの打ち合わせに米国へ飛ぶため、帰国する一週間後に踏み込んだ話をしたいと伝えた。

 スズキ社員として通訳を担当した西正則(84)によると、バルガバたちはこう答えた。「帰りを待つ」。未開の大国への進出に、光明が差す瞬間だった。(文中敬称略)

 <インドの国民車構想> 1947年に英国から独立した後、政府が認可したヒンドゥスタン・モーターズとプレミア・オートモービルズの地場2社が、セダン1車種ずつを20年余り生産。社会主義の計画経済が色濃く、海外からの参入は規制され、商業目的の車の輸入も禁止されていた。80年代前半まで乗用車市場は年間4万台ほどだったが、政府は産業の近代化に向け、海外メーカーと組んで大衆車の量産を計画した。

(西山輝一)

 

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