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【わがまちの偉人】珠洲市 のとキリシマ守り抜く 池上 宝蔵(923〜2015年)

今年5月、満開を迎えた「大谷ののとキリシマツツジ」=珠洲市大谷町で

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心血注ぎ地域の宝に

 毎年五月初めごろに深紅の花を咲かせる珠洲市大谷町の県指定天然記念物「大谷ののとキリシマツツジ」。毎年「オープンガーデン」として公開され、最盛期には市内外から大勢の見物客が訪れる。池上宝蔵は、のとキリシマツツジを懸命に守り抜き、次代に引き継いだ。能登の風物詩に成長した一大プロジェクトの礎を築いた。 (近江士郎)

 池上宅ののとキリシマツツジは自宅裏にある。江戸時代末期に能登町宇出津から船で運ばれ、樹齢三百年を超えるとされる古木四株。二〇〇四年二月に市の、〇六年四月には県の天然記念物に指定された。

 宝蔵の長男権八(けんぱち)(69)=千葉県柏市=によると、宝蔵は終戦後、二十二歳の時に千葉県の陸軍の施設から珠洲へ帰郷。先代の由太郎(よしたろう)から「平和を迎え、花が喜ばれる時代が来る」と、のとキリシマツツジを託された。一九六五年ごろまで見物する人はほとんどいなかったという。宝蔵は当初、何の足しにもならないものを預かったと感じたようだが、とにかく守った。農林業の疲れもいとわず剪定(せんてい)や施肥、雪つりなどを続けた。

 最も重労働なのは雪対策。家は山中にあり、大雪の冬は夜中に何度も起きて雪かきをしたこともあった。宝蔵は、新たな雪つりの方法を模索。竹の幹を使っていた雪つりを縄に変えるなどして維持に努めた。

 宝蔵は、のとキリシマツツジが満開ともなれば、観賞者への丁寧な応対に加え、室内からの見学者のために窓ガラスふきなども忘れなかった。一方で、得意だった相撲甚句をのとキリシマツツジ見学会などで披露。一五年四月に鹿児島県霧島市で開かれた「全国キリシマツツジサミット・イン霧島」の交流会で披露したこともある。「人を楽しませるのが好きで、たくさんの人が集まる宴席などへもよく顔を出していた。私も父のうたう民謡や相撲甚句をよく聴いた」と権八は往時をしのぶ。

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 県天然記念物指定を機に、地元に「大谷ののとキリシマツツジを守る会」が発足。作業を手伝ってもらえるようになったが、宝蔵は「全てをのとキリシマツツジに懸けている」とずっと口にしていた。守る会初代会長の横道嘉弘(81)=珠洲市大谷町=は「人柄が良く唄の上手な人だった。ただ、高齢になるにつれて雪対策が大変だと言っていた」と振り返る。

 権八は定年まで仕事をし、現在は関東と珠洲の往復生活。定年後、珠洲に来ては宝蔵から保存作業を学んだ。今も、のとキリシマツツジの作業時期には珠洲に来て、守る会メンバーの協力で作業に汗を流している。

 「父の姿から、受け継いだのとキリシマツツジを、何としても守らなければならないとの思いを感じていた。私も動ける限り頑張っていく」と権八は決意を込める。=敬称略

     ◇

 次回は、白山市白峰地域の伝統産業「牛首紬(うしくびつむぎ)」の保存に尽力した加藤志ゅん(一九〇一〜八四年)を紹介します。

 いけがみ・ほうぞう 戦争が終わり、22歳の時に珠洲市に帰郷し、農業に取り組み、米作りやアテ(能登ヒバ)の植林に励んだ。先代の由太郎から、自宅ののとキリシマツツジを託され、その後も守り続けた。2015年、すいがんのため92歳で亡くなった。

 

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