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天守は清正の石垣、裏付け 名古屋城築城の古文書発見

名古屋城の石垣の工事の割り振りが示された古文書。「御天守」の部分に「賀藤肥後守」と書かれている=熊本大提供

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 「築城の名手」といわれた武将の加藤清正が、名古屋城天守の石垣を単独で築いたことを示す古文書を熊本大のグループが発見した。同大の稲葉継陽(つぐはる)教授は「数々の城を築いた清正の技術の到達点が名古屋城天守台石垣。その価値が一次史料によって裏付けられた」と話している。

 徳川家康の命で名古屋城が築かれた際、清正ら大名に石垣の工事が割り振られていたことは、後世に記された文書でも示されているが、名古屋城調査研究センターによると、こうした事実が一次史料で確認できたのは初めてとみられる。

 文書は、小倉藩の細川家から名古屋城の石垣の建造現場に派遣されていた奉行が一六一〇年、国元の家老松井家などに宛てた報告書。工事の箇所と担当の大名、その大名の受け持ち規模の基準となる石高が記されている。

 天守を示す「御天守」の担当として加藤清正を表す「賀藤肥後守(ひごのかみ)」の名が書かれている。本丸の天守以外の石垣は細川忠興ら七人の大名、二の丸は十一人の大名で分担した。

 他の部分は複数の大名が分担する一方、最も重要な天守台石垣を清正が単独で担っており、その地位が際立っていたことがうかがえる。

 タイトルは「名古屋御城御普請衆御役高(やくだか)ノ覚(おぼえ)」で、縦三一・八センチ、横一九四・九センチ。熊本大は一九五七年にこの文書を含む松井家文書約三万点を入手。同大の永青(えいせい)文庫研究センターが最近調査していた。

 稲葉教授によると、清正は熊本城を皮切りに肥前名護屋城(佐賀県唐津市)、朝鮮出兵時に現地で建てた倭城(わじょう)、熊本県内の七つの石垣付きの城を築いた後、最後に名古屋城を築城し、直後に亡くなった。稲葉教授によると、秀吉配下の武将の中で清正の石垣を築く技術は突出していた。

 現在、名古屋市は名古屋城天守の木造復元事業を進めている。稲葉教授は「天守の復元で石垣の価値を毀損(きそん)する可能性が少しでも想定されるなら、十分に配慮していただくようお願いしたい」と話している。 

 (垣見洋樹)

    ◇

 名古屋城天守木造復元事業は、石垣の保全をめぐって名古屋市と有識者の意見が食い違い、進捗(しんちょく)が遅れています。事業をどう進めるべきかなどを五人の専門家に尋ねた連載「教えて 名古屋城」(計五回)を中日Webで読むことができます。

 

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