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知るコレ!

1000年前の「超新星」記録 明月記

今夜は七夕です。夜空を眺め、星や宇宙へ思いを巡らせるのは今も昔も変わらないのかもしれません。小倉百人一首の選者で、平安末期から鎌倉時代にかけての歌人、藤原定家がつづった日記「明月記」には、現代の天文研究につながる貴重な記録がありました。何が書かれていたのでしょうか。 (福沢英里)

 「天喜2年(1054年)に客星出現 大きさ(明るさ)歳星(木星)のごとし」

 明月記にある文章です。客星とは不意に現れるお客さん星の意味。それまで地上から見えなかった星が、突如、空に明るく輝いたのでしょう。望遠鏡のない時代に肉眼で見えたのです。

 「今から1000年も昔の超新星の記録が三つもあります」。日本天文学会前会長で京都大の柴田一成教授は、こう説明します。超新星とは、重量級の星が最期に起こす大きな爆発現象のこと。明月記には「客星出現例」として8件が観測日時や方角とともに記され、現代の観測で3件が超新星、5件が彗星と考えられます。

この古文書から、天文学の新発見が生まれました。

 一つは、かに星雲の成り立ちです。かに星雲は、1731年にイギリス人が望遠鏡で観測し、後に名が付けられました。20世紀に入ると、かに星雲が膨らんでいることに気付いた各国の天文学者は、星雲の大きさから逆算して、1000年ほど前にこの辺りで突然、星が見えたという記録はないかと世界各地の文献を探し、明月記に行き着きました。1054年の客星の一文を日本のアマチュア天文家が英語で紹介したのです。

 その報告を参考に「かに星雲は1054年に発生した超新星の残骸である」とオランダの天文学者らが1942年に発表。この客星が超新星だったことも確定しました。20世紀前半に提唱されていた、元素は星の内部で作られ、超新星爆発で宇宙空間にばらまかれたという理論を補うことにもなりました。

 もう一つは、明月記の1006年の超新星の記録を基に、京都大の小山勝二名誉教授らのチームが迫った超新星爆発のエネルギー源。2006年、日本のエックス線天文衛星で、この超新星の残骸を観測し、爆発時は三日月ぐらいの明るさだったと推定。小山教授は「1000年たった今も毎秒6000キロもの速さで、エックス線などの高エネルギーを出して膨らみ続けています」と話します。

 明月記は国宝で、今年3月には日本天文学会が創設した「日本天文遺産」の第1号に、江戸時代の天文台で唯一残る福島県会津若松市の「会津日新館天文台跡」とともに選ばれました。

 なぜ藤原定家は日記に天文を記録したのでしょう。

今ではパワースポットとして多くの観光客が訪れる晴明神社=京都市上京区で

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 京都市内では2011年から、平安時代の暮らしや文化を学び天文学の歴史にも触れる観光ツアー「京都千年天文学街道」を、NPO法人などが実施しています。京都大天文台天文普及プロジェクト室長で天文博士役の青木成一郎さんらに、コースの一つ「明月記」コースを案内してもらいました。

 同市上京区の晴明神社を出発し、京都御所などゆかりの地、約2.3キロを3時間かけて歩きます。晴明神社は平安時代に活躍した陰陽師、安倍晴明をまつっています。陰陽師は星の観測などを仕事とする役人です。

 平安時代、天文現象は天からの警告で、地上の政治がうまくいっていないために起こると考えられていました。「日食があれば恩赦で罪人を放し、彗星が出現すれば改元した。天文現象は人々の関心事でもありました」と青木さん。陰陽師は陰陽寮と呼ばれる役所に通い、星を眺めては、記録をし、天変があると朝廷へ報告していました。

 明月記は1180〜1235年の日記。客星の部分は、安倍晴明の子孫にあたる陰陽師に調べさせた過去の出来事の記録が貼り付けられています。定家が実際に客星を見たわけではありません。明月記に詳しい京都情報大学院大の作花一志教授は「知識人としてさまざまなことに興味を持っていたのでしょう。文理両道といえるかもしれませんね」と人物像を思い描きます。

 

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