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そばにいるよ ドラえもん50年

 漫画「ドラえもん」の雑誌連載スタートから五十年。テレビアニメに、映画に。作者の藤子・F・不二雄(本名・藤本弘)氏が死去した後も愛され続ける国民的作品。人気の秘密はどこにあるのだろう。

 <ドラえもん> 小学館発行の雑誌「よいこ」「幼稚園」「小学一年生」〜「小学四年生」の6誌の1970年1月号から連載開始。対象年齢に合わせ、内容は異なっていた。未来から来たネコ型ロボット・ドラえもんと、のび太を中心に物語が展開する。今も続くテレビ朝日系のアニメは79年から放送。映画は80年から、2005年を除いて毎年3月に公開されている。50年を記念して6誌に掲載された第1話を収録したコミックス「ドラえもん0巻」が刊行された。

◆小説を書くお手本に 作家・辻村深月さん

辻村深月さん

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 「ドラえもん」は、私の小説を書く上でのお手本のような存在です。

 ドラえもんの魅力の一つは、日常の中に不思議があること。大長編や映画でも必ず日常から非日常に出掛けて、また日常に戻ってくる。私の小説『ツナグ』は、死んだ人に一度だけ会えるという話です。現実にはあり得ない設定ですが、そうした発想ができるのは自分がドラえもんを読んで育ってきたことが大きいと思います。非日常的な設定にルールを決め、現実と地続きに見せていく。それはドラえもんに教えてもらったことです。

 自分の家に漫画の何巻があったとか、お弁当箱がドラえもんだったとか。生活の中にドラえもんがあるのは当たり前で、私以外にも、自分自身の子ども時代の思い出とドラえもんが結び付いている人は今も昔もたくさんいると思います。だから、ドラえもんのことは、皆が共通に話せて盛り上がれる。国民的漫画の底力を感じます。

 今年の三月に公開された映画で脚本を担当しました。実は以前にも脚本の依頼をいただいたのですが、その時はお断りしました。一番の理由は、ずっとファンでいたかったから。製作に関わると大変なことも多いだろうし、ドラえもんをただ好きなだけではいられなくなってしまうだろうと怖かったんです。

 でも、藤子先生のチーフアシスタントだったむぎわらしんたろう先生にお会いし、藤子先生が亡くなられた後、大長編を引き継いで完成させたお話を伺いました。ドラえもん映画は、多くのクリエーターがバトンをつなぐようにして毎年作ってきたもの。それを見ながら育ってこられたことに感謝を覚えました。その恩返しができるなら幸せなことだと、バトンを受け取り、次につなげるお手伝いがしたいと脚本をお受けしました。

 映画作りの現場では、たくさんの大人が本気でぶつかり合う。それは、皆ドラえもんが大好きだから。ドラえもんものび太も実際にはいないけれど、見ている人にとっては、現実の友達以上の友達です。その思いが共有できる人たちとの仕事を通じ、映画を終えた今は、ドラえもんをより大好きになりました。

 ドラえもんがいなかったら、私は今と同じ形で小説を書いてはいなかったと思います。だから「いてくれてありがとう」。そんな気持ちです。

 (聞き手・柳田瑞季)

 <つじむら・みづき> 1980年、山梨県生まれ。2004年デビュー。12年『鍵のない夢を見る』で直木賞受賞。今年3月公開の「映画ドラえもん のび太の月面探査記」で脚本を手掛け、小説も執筆。

◆まるで空気のような 作家、編集者・中川右介さん

中川右介さん

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 「ドラえもん」はいろんな論じ方ができます。僕自身、近著の『読解!「ドラえもん」講座』でさまざまな読み取りをしました。女性学的な解釈として、しずかちゃんに「かわいい」存在である「女の子」以外の役割が与えられていないことから、作品の根底に、現在の基準で見れば女性への蔑視・敵視があると。でも、こういう解釈は一種の遊び。「ドラえもん」とは何かといえば、「よくできたマンガ」に尽きます。だって、誰が読んでも面白いんだから。

 もともとは「オバケのQ太郎」の焼き直しで、おなじみのキャラクターが名前を変えて出てきました。それが試行錯誤の末に洗練され、ドラえもん、のび太、しずかちゃん、ジャイアン、スネ夫の不動の一座が固まり、毎回オチがある落語的な構造を持つ「生活ギャグマンガ」になった。まさに職人芸の世界です。

 「ドラえもん」を描く前(一九六〇年代末)の藤子・F・不二雄は「オバQ」で大ヒットを飛ばしたものの、赤塚不二夫のシュールさも、「巨人の星」の劇画的刺激も、石森(のちに石ノ森)章太郎のロマンもない、小学生の僕が読んでも子どもっぽいマンガを描いていました。ところが大逆転が起きます。時代に合った刺激的な作品は飽きられていきましたが、「ドラえもん」はまるで空気のように存在し、お米のように毎日食べても飽きないものになった。

 なぜ空気やお米になれたのか。理由の一つは、藤子・Fの卓越した作画技術です。マンガは記号的な表現ですが、そのもっとも洗練された形で自然風景や建物、人物を描いています。そうなったのは、「ドラえもん」が小学生向けの学年誌で連載されたことが大きいでしょう。小学生が読むという制約から、誰にでも理解できる表現が必要とされました。学年誌という限界が、逆に作品の普遍性につながったと言えます。

 ただ、「普遍性」という言葉から「ドラえもんは良いマンガ」なんて思わないでほしい。学年誌って、お勉強のページもあるわけですね。その中でマンガのページは息抜き、娯楽としてある。「ドラえもん」はまさにそれを突き詰めた。親や教師に決してこびなかった。そこから教訓を読み取ったり、子育ての参考にしたりするものでは断じてない。そうでなければ子どもは支持しませんよ。

 (聞き手・大森雅弥)

 <なかがわ・ゆうすけ> 1960年、東京都生まれ。クラシック音楽、歌舞伎からサブカルチャーまで、さまざまな分野で評論活動を展開。近著に『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)。

◆漫画で読んでほしい 初代担当編集者・河井常吉さん

河井常吉さん

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 「編集者は黒子です。表に出てはいけません」。そう教えられ、そう信じて、できるだけ昔話をせずにきました。

 ただ、七月に藤本弘先生の奥さまに川崎市藤子・F・不二雄ミュージアムの「ドラえもん五十周年展」にお招きいただいたのですが、その会場の入り口に、五十年前に私が担当した「ドラえもん」の新連載予告のページが、巨大な立体オブジェに変身して展示されていたのです。それを見て、「少しだけ昔話をしても、天国の先生は怒らないのでは?」と思いました。

 初めてお会いしたのは一九六九年六月。先生が三十五歳、私は二十四歳で「小学四年生」編集部に配属された一週間後です。相手は、すでに「オバケのQ太郎」で大ヒットを飛ばした大先生。作品についての打ち合わせなのに、まともにお話すらできない日が何回か続きました。

 もじもじと困っていたある日、先生が「河井さんはどちらのご出身ですか」と話を振ってくれたのです。わらにもすがる思いの私は、東京都杉並区の生まれであること、小さい時からめがねを掛けていてメガネザルといじめられたことなどを一気にお話ししました。先生はそんな話を楽しそうに聞いてくださったのです。うれしかったです。

 そして四カ月後。先生から頂いた新連載の予告の原稿にドラえもんの姿はなく、めがねを掛けた少年と、机の引き出しから飛び出した「出た!」の文字だけ。いたずら好きだった先生のこと、私を驚かせようとしたのでしょうか…。「タイトルも主人公も分からない。こんなの予告じゃないぞ」と上司にこっぴどく怒られました。

 私が「ドラえもん」を担当したのは三年間です。六九年のアポロ11号の月面着陸、翌年の大阪万博、「ウルトラマン」シリーズなど、子どもたちの話題に事欠かない時期。連載はひっそりと始まり、当時は読者の反応もほとんどありませんでした。それから五十年。多くの人に支えられ、テレビアニメ、映画と展開し、世界中の皆さんに知られるようになりました。すごいことだと思いますが、そのすべての源は藤本先生のアイデアと右手のペンが生んだものです。

 ぜひ「ドラえもん」を漫画で読んでください。そして藤子・F・不二雄ミュージアムで、生の原稿を見て、先生の右手のブロンズ像に触れていただければうれしいです。小さくて温かい手ですよ。

 (聞き手・谷岡聖史)

 <かわい・つねよし> 1945年、東京都生まれ。68年に小学館入社。「小学四年生」「ビッグコミックスペリオール」の編集部や「コロコロコミック」の担当部長などを務めた。

 

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