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あらためて「表現の自由」を問う

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が抗議を受けて一時中止に追い込まれた。今回は政治的な表現が問題になったが、漫画やアニメの性的な表現への規制が論議を呼んだこともある。あらためて「表現の自由」を考える。

 <「表現の不自由展・その後」の波紋> 過去に出展禁止などになった作品を集めた企画展。昭和天皇の肖像を使った版画作品の図録が美術館に焼却されたことを作品を燃やして再現した映像作品や、慰安婦を表現したとされる少女像に抗議が殺到。名古屋市長など政治家の批判も騒動を拡大させ、一時展覧が中止に。文化庁が「手続き上の問題」を理由にトリエンナーレへの補助金不交付を決めたことも物議を醸した。

◆制限と独断の「綱引き」 現代美術家・会田誠さん

会田誠さん

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 あいちトリエンナーレの騒動を大きくしたのは、何よりも「津田大介芸術監督をつぶそうと動いた人たちのクレーム」と「河村たかし名古屋市長の偏りのある発言」です。日韓関係の悪化や忖度(そんたく)の空気のまん延などの「うみ」のようなものが、「表現の不自由展・その後」をきっかけに噴出した感があります。

 一方で、不自由展の実行委員の姿勢にも、残念ながら問題があったと言わざるを得ません。同展自体は、トリエンナーレのメインコンテンツと言えるものではありませんでしたが、良い試みだったと思います。実行委員五人にも個性があるので選ばれた作品に偏りがあるのは当然で、「こういう展示があっていい」という印象は持ちました。

 僕が良くないと感じたのは、騒動後の実行委員のかたくなな態度です。一方的に自分たちの主張をするばかりで、状況に応じた柔軟性を欠いていました。再開に向けた努力も足りない。批判の対象になっている作品の説明に、もっと広く目に付く形で言葉を尽くすべきでした。

 現代美術の一部の作家は社会に問題を投げかける作品を作ろうとしていて、僕もその一人です。僕は花鳥風月的な楽しくて美しい作品を作る気はありません。時には見る人の神経を逆なでするような作品もあります。そういった作品は、一石を投じて波紋ができてからが本番というところがあります。何か問題が起きたときには「なぜこの作品を作ったのか」という説明をします。逃げずに説明すれば理解を得られることも多い。説明をしても心を動かせない程度の作品であれば表現の失敗、敗北なのです。

 出展を拒否されたことも度々あります。展覧会の際には担当キュレーター(学芸員など展示の企画や運営などに携わる専門職員)と話し合い「綱引き」をしながら展示を決めたり、決まったテーマに沿ってやりとりを経て新作を作ったりしています。そこにはいつも何かしらの制限は存在するのです。

 僕自身、「芸術は自由で、全ての表現が許されている」とは思いません。ですが、現代美術は、ほかのジャンルよりは個人の独断と偏見を見せられる表現方法ではあります。「個人性」を表現するとどういうふうになるのか、という一つの例を見せるつもりで、誇りを持って作品を生み出していきたいと思っています。

 (聞き手・清水萌)

 <あいだ・まこと> 1965年、新潟県生まれ。東京芸術大大学院美術研究科修了。絵画を中心にさまざまなメディアを用いた作品を制作。主な個展に「会田誠展:天才でごめんなさい」(2012年)など。

◆規制で情報操作の恐れ 漫画家・ちばてつやさん

ちばてつやさん

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 以前、漫画の性表現などを規制する東京都の条例に反対しました。こういう規制の動きは、まるで波が繰り返すように何度もやってきますが、作り手が萎縮して小さくなってしまうことが一番心配です。

 当時、教えていた学生から「私たちの作品も取り締まられるんでしょうか」と聞かれました。議論するだけでも萎縮は始まります。葛飾北斎だって春画を描いていました。おおらかに描けるからこそ、日本の漫画は世界中の子どもたちに愛されるほど豊かなんです。

 成人漫画のわいせつ性を巡る裁判では逮捕された作者側の証人になりました。私自身にとっては慌てて本を閉じるほど過激な作品でしたが、これは作者が描きたいことであり、描きながら自分の世界を見つけようとしていると思い、表現の自由を擁護する立場で証言しました。

 私は戦争を少しでも体験しているから、検閲がすごく怖いんです。新聞、ラジオ、集会など、いろいろなものが規制され、権力者に都合の良い情報ばかり流れ、手も目も耳もふさがれて(小動物の)レミングの群れのように戦争に突っ走りました。

 漫画や映画のように、大衆が見るものを取り締まるのが一番やりやすいわけです。「これは過激だから」と。でも規制が一度可能になれば、それは情報操作に使われてしまう。

 人間の考え方はさまざまです。あいちトリエンナーレの問題も、いろいろな意見が言えること自体、健全だと思います。ただ、権力者が上から目線で「これは良い、これは悪い」と線引きすることは良くない。

 エロでも暴力でも、過激なだけの作品は最初は面白がられますが、すぐに飽きられます。選ぶのは作品を見る人々です。小さな子どもだって分かるんです。大衆の判断力を信じてください、と言いたいですね。

 よくこんな例え話をするんです。臭くてハエが飛んでいるような花だって世界の役に立っている。そこに除草剤をまけばスミレやタンポポも一緒に枯れてしまいます。あるいは美しい富士山も、裾野には樹海や蛇、ガイコツなど怪しげな物もある。それも含めて富士山なんです。

 文化を大事にしたいと思うのなら、たとえ自分にとって眉をひそめたくなる表現でも、規制や脅迫でつぶすようなことだけはしないでほしいと思います。

 (聞き手・谷岡聖史)

 <ちばてつや> 1939年、東京都生まれ。旧満州(中国東北部)育ち。代表作に『あしたのジョー』『おれは鉄兵』など。2012〜18年に日本漫画家協会理事長。現在は同会長、文星芸術大(宇都宮市)学長を務める。

◆民主主義社会に不可欠 憲法学者、京都大教授・曽我部真裕さん

曽我部真裕さん

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 人権という概念が誕生したのは十八世紀の終わりです。それ以前にもロックやルソーらの思想レベルではありましたが、一七七六年のバージニア権利章典、八九年のフランス人権宣言などで公式に採用されました。表現の自由は、信教の自由や財産権などと並び、人権概念が生まれたときからある最も古典的で重要な人権の一つです。

 では、表現の自由とは何か。例えば、欧州人権裁判所のある判決が次のように分かりやすく端的に示しています。まず、民主的社会の本質的基礎であり、社会の発展や人間の発達のための基本的条件である。そして、国家や一部の人々を傷つけたり、驚かせたり、混乱させたりするようなものにも保障される。

 民主主義の社会では、開かれた政策論議が必要です。だからあらゆる意見が認められなければならない。権力監視のためにも表現の自由は不可欠です。また、少数派の人にも多数派の常識とは異なる考えを述べる自由を保障しなければいけない。それは、受け手の知る権利ともつながります。考えや視野が広がるきっかけになり、社会を動かす力にもなります。

 もちろん、表現の自由にも限界はあります。例えば、名誉やプライバシーといった特定個人の権利を侵害するようなケースです。それは規制や制限の対象になり得ます。

 「表現の不自由展・その後」では、少女像や、昭和天皇に絡む場面のある映像作品が批判されました。私は、どちらも表現の自由の範囲内だと思います。少女像は、反日的だとか不快だとか言われましたが、特定の個人の権利を侵害するものではない。映像については、一般の個人なら人格権を傷つける可能性があります。しかし、昭和天皇は歴史上の人物であり、公人です。作品には天皇を侮辱する意図はないと思われるので違法ではないと考えます。

 公立の美術館で開かれ、税金も使われたので、行政が内容を選別したり、不適切なら補助金を引き揚げたりしても問題ないという意見もあります。しかし、それは表現の自由の理念に反します。文化庁の補助金不交付決定の理由は、手続き上の問題があったからと説明されていますが、裏に展示内容に対する評価が含まれていないかどうか。よくチェックする必要があると思います。

 (聞き手・越智俊至)

 <そがべ・まさひろ> 1974年生まれ、神奈川県出身。京都大大学院法学研究科修士課程修了。あいちトリエンナーレのあり方検討委員会委員。共著に『情報法概説(第2版)』など。

 

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