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原爆投下機の通信傍受 旧日本兵対談

戦争中の体験を語り合う鈴木忠男さん(左)と長谷川良治さん=中日新聞社で

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◆Z爆弾操る「V600番台」傍受

◆空襲警報出ず そんなばかな

 旧日本陸軍で連合国軍の通信を傍受する任務に当たっていた名古屋市千種区の鈴木忠男さん(92)と、その情報を整理し、参謀本部に伝達する役割を担っていた滋賀県野洲市の長谷川良治さん(95)が、名古屋市中区の中日新聞社で初めて対面した。広島と長崎に原爆を投下した米軍の動きを察知しながら、その情報が生かされなかったことへの悔いを抱えて戦後を生きてきた二人。八月五日の本紙朝刊一面「原爆機出撃 傍受していた」で互いの思いを知り、対談を望んだ。戦後七十三年を経て、同じ思いを抱いてきた二人が当時を振り返り、今を生きる人々にメッセージを送った。(聞き手・中尾吟、塚田真裕)

 長谷川良治 お目にかかれて大変うれしい。鈴木さんは北多摩陸軍通信所(現東京都東久留米市)の中央通信調査部にいらっしゃったということで、受信した米軍などの電波を、非常に高速でアルファベットに置き換える作業をされていたはず。ご苦労されましたなあ。

 鈴木忠男 一九四四(昭和十九)年八月に通信候補生として無線電信講習所(現東京都目黒区)に入り、翌年三月に卒業しました。普通一年で習うところを戦況の悪化で早く兵士に仕立てなければいけない、と半年で詰め込まれた。そして、四月に一等兵で入隊しました。長谷川さんはそのころ見習士官だったということなので、上司になりますね。

 長谷川 師範学校を出て、四四年四月に陸軍電信第一連隊補充隊(現相模原市)に入り、幹部候補生の試験に受かったから、同年九月からは陸軍通信学校(同)で半年間勉強しました。その半年後の四五年四月に参謀本部の中央通信調査部に配属されました。東京の高井戸です。その際に上官から「貴様らは参謀本部に来てもらうから、極秘情報を教えておく」と言われ、「日本は特殊な爆弾を研究している」とも。原爆開発の「ニ号研究」を担った仁科芳雄博士の名前もその時に聞きました。

 鈴木 北多摩通信所では、中ソ英米四カ国の外交電報を傍受していた。テープに印字されたモールス信号を見て、タイプライターで電文にする任務です。最初は米中間で交信している外交電報のうち、米サンフランシスコから送信されているものを扱っていました。次はグアムから送信される米軍の全艦船向け電報。こちらは暗号ではなく英文そのままなので、大阪を空爆したとか、日本の艦船をどこで沈めたとか、戦況がよく分かる情報でした。

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 長谷川 私は参謀本部に出入りする庶務のような任務をしていました。各地の通信所で収集した情報が集まってくるので、午前八時の参謀会議が始まる前に情報を仕分けて、上官である少将に渡す。北多摩通信所をはじめ、関東近辺にある通信所には電報の受け取り、連絡事項の伝達などのために何度も行き来したなあ。鈴木さんとも当時、すれ違っていたんでしょうなあ。

■特殊部隊

 鈴木 B29の出撃情報などは、日本軍は実はかなりつかんでいた。重要なのは、B29が発する電波から傍受できるコールサイン(呼び出し符号)。B29は「V」の後に数字を付けたコールサインで、部隊ごとに符号が異なる。例えば、サイパン島を拠点にするB29は「V400」番台、グアム島は「V500」番台、テニアン島は「V700」番台でサインを発していた。15V576という電波が出たらグアムの五七六隊の十五番機という意味です。頭の数字を数えていれば部隊の機数も分かる。

 機体から発せられる電波をつかむと、電探といって、日本軍側から機体に向けて電波を当て、進行方向や速度を判別する。目的地がどの方面で、どのくらいの時間で本土に着くかということが分かると、迎撃や空襲警報を出すのに生かされるというわけです。

 四五年の五月ごろテニアンに突然出現したのがV600番台でした。他の番号の部隊は百機以上いるのに、十数機しかいない。しかも最初は日本に近づいてこず、周辺をぐるぐる回るだけ。「これはおかしいぞ」と話題になりました。

 長谷川 そうそう。各地からV600番台の電報が届くので「おかしな電報が来たぞ。不思議だな」という話をしていました。だからV600番台の件は当然、上官に情報を上げました。日本本土にも時々来て、「パンプキン爆弾」と呼ばれる模擬原爆をいくつも落としていった。そのころは何をやっているのかよく分からなかったけど、原爆投下の訓練をしていたわけやなあ。

 鈴木 この部隊が特殊な爆弾を投下する部隊ではないかということはこちらも考えていた。四五年七月十六日に世界で初めての核実験が米国で行われたが、当時は情報が少なく、実験があったという情報はなんとなく入ってくるものの、原子爆弾とは言われていなかった。ただ、周囲ではZ爆弾と呼ばれ、これまでの爆弾とは違うぞ、と。そこでV600番台は「Z爆弾を操る部隊なのではないか」と結び付いた。

 長谷川 Z爆弾という呼び方は参謀本部内でも確かにあった。これが本当に実戦で使われるものなのかどうか、参謀本部でも考えられていたはず。V600番台の部隊は、後から知ることになるが広島に原爆を落としたエノラ・ゲイを含めた米陸軍航空軍第五〇九混成群団だったわけやなあ。

■原爆投下

 鈴木 われわれはV600番台の動きはしっかり追っていたから、八月六日、広島に原爆を投下するためにテニアンから出撃したことも把握していた。だから、情報を生かして、空襲警報は出されていただろうと思っていた。ところが、広島に投下された翌日だったと思うが、同僚から「どうやらZ爆弾が落とされたらしい」と聞いた。「空襲警報も出ていなかった」とも知らされた。そんなばかなことはないやろうという思いですよ。私らは空襲警報を出すために任務をやっていたのに、生かすことができなかった。それで、あれだけの人が亡くなってしまった。悔しくてしょうがない。

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 長谷川 V600番台が広島に向けて出撃した情報はこちらにも届き、参謀本部に上げられた。投下部隊が西向きに針路を取ったこととか、先発の気象観測機の動きとかだいたい分かっとったわけですよ。ところが、結果的に原爆投下のタイミングには警報は出なかった。参謀本部でどう話し合われ、判断されたのかは私にも分からないが、なぜ何も対処しなかったのか、今でも本当に疑問だし、私も悔しいですよ。警報が出て、安全な場所に避難したら、少しでも救えた命はあったはずだから。

 戦争末期には、早めに空襲警報を出すと逆に米軍がそれを察知して空襲の場所を変えることもあった。だから、警報を出すタイミングには高度な判断が必要だった。そういう難しいところがあったのも事実。ただ、九日には長崎に向けて投下部隊が出るでしょう。その動きも把握していたのだが、参謀本部は結局また何も対処できず、落とされてしまった。

◆都合の悪い情報隠す国 今も

◆戦争 検証せず戦後は続いた

■終戦間際

 鈴木 原爆以外でも、終戦間際のころはもう、日本が攻められっぱなしだということが分かる情報ばっかりで、私らの隊の雰囲気も暗かったですよ。関東沖に連合軍の大船団が集結していたことがあり、あれは驚いた。

 飛行機のコールサインは「V」で始まるが、船のコールサインは「N」で始まる。コールサインの数のあまりの多さに衝撃を受けた。電探で位置を特定して地図上に針を刺して船の場所を落とし込んでいくのだけど、針が何本あるのか分からないぐらい無数に刺さっていて絶望も感じた。

 長谷川 この船団の集結は、もちろん参謀本部内に情報は上げられていて、対応は協議された。あれだけの大部隊に急に来られたら太刀打ちできなかったし、集結に対抗するために何か新たな手を打てるようなこともなかっただろう。

■現代日本

 鈴木 戦争中、無線で米国の情報を傍受していると、あちらが日々戦果を上げている情報がたくさん入ってきましたね。それに引き換え、こちらの戦果なんてほとんどない。にもかかわらず、大本営は派手な戦果があったような情報を流し、新聞には勝っているかのような記事しか載っていない。「うそばっかりだ」と思ってましたよ。口には出せなかったけどね。

 でも最近は今の日本もあのころとそう変わっていないんじゃないかと思う。森友・加計(かけ)問題があったけど、都合の悪い情報を国が隠していたことが分かった。国家という組織が情報を隠すと、見抜くのはとても難しいですよ。マスコミなどが暴く場合もありますが、特定秘密保護法ができてなかなか、そういうところに迫りづらくなっているだろうしね。

 ただ、あまりにも情報が隠され、それが続くと国民だってばかじゃない。いつか分かって、怒りが噴出するわけです。国は、過去の反省を生かし、ごまかしは通用しないと考えないといけない。

 長谷川 情報を扱ってきた立場からみると、当時も今も、日本は本当に情報の扱い方が下手だと思う。周辺国と緊張関係になったときもなかなか交渉ができない。戦後補償についても、まだもめていることが多い。物事は、相手の情報を集め、よく知った上で進めないとだめ。こうしたことが下手なのは、あの戦争を総括しなかったことにあるんじゃないかなあ。どこで誤ったのか、なぜ負けたのか、しっかり検証しないまま戦後は続いてきた。これは、当時を生きてきた人間が無責任だったんだと思う。

 だから、戦争を知っている人間同士が会ったこの機会は貴重だと思う。うれしかったなあ。こういう話ができて。私らの話を聞き、歴史を検証してほしい。同じことは繰り返してはならんからね。

 鈴木 われわれは生き証人ですからね。生きているうちは、しっかり伝えていかないといかんと思ってます。お話しできて良かった。本当にありがとうございました。

長谷川良治さん

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 <はせがわ・りょうじ> 1923(大正12)年8月、滋賀県野洲市生まれ。95歳。滋賀師範学校を卒業後、44(昭和19)年4月に旧陸軍電信第1連隊補充隊に入隊し、45年4月から終戦まで陸軍参謀本部に所属し各地からの情報を収集し、参謀本部に伝達する任務を担う。終戦後、教員になり同県内の小中学校で教壇に立つ。退職後も同県旧中主町教育委員長などを歴任する。

鈴木忠男さん

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 <すずき・ただお> 1926(大正15)年3月、岐阜県多治見市生まれ。92歳。6歳で名古屋市瑞穂区に移る。旧逓信省の無線電信講習所を卒業後、45年4月、1等兵として北多摩陸軍通信所の中央通信調査部に配属。外報電報の傍受に関する任務に従事した。戦後は名古屋市内で電器店を経営。「戦争と平和の資料館ピースあいち」(名古屋市名東区)語り手の会メンバー。

 <コールサイン> 無線局が発信時と受信時に発する呼び出し符号で「こちら○○」の意味。軍用機は飛行機ごとに異なった符号が用いられる。太平洋戦争当時、日本陸軍と海軍は、米軍の基地で使われる周波数を探り、B29が発する電波からコールサインを把握した。

 <原爆投下部隊(米陸軍航空軍第509混成群団)> 第2次世界大戦中、米国はマンハッタン計画に基づき原爆開発を極秘に推し進めた。原爆投下部隊は、原爆を爆撃機B29で投下するための特別部隊として15機で編成されており、日本の各都市に「パンプキン」と呼ばれた模擬原爆を落とすなどして訓練。1945年8月6日に「エノラ・ゲイ」が広島に、同9日には「ボックスカー」が長崎に原爆を投下した。

 

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