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あの人に迫る

竹下義樹 全盲の弁護士

写真・黒田淳一

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◆障害者のために 努力で道を開く

 京都市を拠点に活躍する弁護士の竹下義樹さん(68)。中学生のときに失明し、盲学校に通う中で、弁護士を志すようになった。しかし当時は、視覚障害者の司法試験の受験は不可。国に粘り強く訴えた結果、点字による受験を認めさせ、日本で最初の合格者になった。奮闘の原動力になったのは、多くの支援者と社会的弱者を救いたいという正義感だった。

 −中学三年で失明されたそうですね。

 失明するまでは、両眼の視力は〇・一弱の強度の弱視。生まれつきです。体を動かすのが好きだったから、相撲部に入り、それが、失明の一つのきっかけになってしまったんです。だんだん視力が落ちて、結論的には網膜剥離になってたんだけど。校医の眼科へ通いましたよ。そしたら、医者が「軟こうでもつけといたら治るやろ」って、目薬と軟こうをつけられて。

 −他の病院は受診されなかったのですか。

 どこを回っても手遅れで、手の施しようがないと言われて。いちるの望みをかけて、京都の府立医科大へ行って、半年入院しました。おやじとおふくろはつらかったでしょうね。おやじが横で泣いているのを見て「かわいそうやな」とは思いました。医大で二度手術しましたが、視力は戻らず。ただ、失明したことが、僕の人生にマイナスにならなかったのは、落ち込まなかったからでしょうね。

 −盲学校時代に弁護士にあこがれ、龍谷大に進学。壁があったようですね。

 龍谷大に入った時点で、日本では、点字の司法試験は認められてなかったんです。僕は大学一回生の終わりごろだったか、法務省に手紙を書いて「点字受験をしたいんだけど、どう手続きをしたらいいんだ」と問い合わせたわけね。そしたら、法務省から「前例がありません。諸般の事情から実施が困難です。ご了承ください」という返事が届いたわけ。そこから、僕の「こんにゃろう」が始まって、法務省に日参したわけです。

 東京まで金がないから夜行バスで行くわけや。法務省で直談判して突き返されて。それをやっているうちに、新聞記者がそのことを取り上げたわけ。京都で竹下を支援する会というのができましてね。点字受験ができるまで運動の母体となるんです。国の方にもいろんな形で声が届き始めて、昭和四十八(一九七三)年には点字受験OKに、昭和五十年代に入ってから、点字の六法全書も国が作るようになって。点字受験は、活字を読むのに時間がかかりますから、試験時間の延長も実現する流れが続くわけですわ。

 −どんな弁護士を目指していたんですか。

 四つ、口にしていたんです。一つは、医療事故を取り扱う弁護士になりたいと思いましたわ。司法試験に受かるまで十年間、病院でマッサージの仕事をしていて、医療事故が起こっても、闇から闇に葬られるのをいくつも見ましたからね。二つ目は、労働災害で苦しんでいる人たちの弁護。病院に労災の人がたくさん来てましたので。三つ目は、障害者のために働く、障害者の権利の問題を取り上げることができる弁護士になりたいと。最後は、一番大事だと思っているんだけど、障害者とか一人の弱い人の声を裁判所や行政につなぐパイプ役になりたいと。

 −合格まで、支援者はどのくらいいたのですか。

 点訳サークルの子とか、社会人のボランティアサークルとか、友人とかが、僕のために点字を覚えて、六法全書をこつこつ主要な法律だけを点字にしたり、専門書をテープで録音してくれたり。たぶん百人以上の人が僕のために教材作りを手伝ってくれた。

 −学生結婚した奥さまの存在も大きかった。

 昭和四十六年に大学に入り、嫁さんは同期。昭和四十七年十月二十三日に婚姻届を提出したんです。知り合って一年半ですね。きっかけは、嫁さんが点訳サークルに入ってきたからですけどね。学生結婚で、子どもが次々できる中で、貧乏のどん底でした。嫁は、僕を追い詰めることは一度もしたことないですね。「来年あかんかったら、どうするの?」とか、口にしたことはないですわ。

 −弁護士になってからは順調だったのですか。

 僕の周辺でも誰も経験していないわけです。どう援助していいか分からない。就職した京都法律事務所のボスからね、「おまえは自分で道を切り開かんと、誰も何もできへんで」と言われて。普通の法律事務所の事務をやる担当と、僕の読み書きをいつでもアシストしてくれるバイトの女性と、二人をつけてくれと言って、つけてもらいました。

 刑事事件を引き受けたときは、刑事記録は全部録音しましたよ。一つの事件で、三十本、四十本になりますわね。それを繰り返し、繰り返し、夜中でも聞いて、自分の頭にたたき込んだり、自分でテープを聴きながら点字のメモを作って、法廷に臨んだりとか。交通事故を扱うと、実況見分調書をどうやって頭に入れようかと、工夫しましたよ。僕の足と手でその場面の位置関係を三次元的に理解しようと、現場へ必ず行きました。指で触って図面が分かる触覚図面も、事務員とコンビで作りましたよ。

 −裁判のときは、人の表情などは見えませんよね。

 どうしようと思いましたね。常に事務員を横に座らせておくんだけれども、事務員に表情の変化まで僕に報告しろというのは、無理です。ただ、証人なり、僕が被告の立場に立ち、原告に尋問をしているとしましょう。原告がうつむいているか、裁判官に真っ正面に向かってしゃべっているか、自分の弁護士の方にちらちら顔を向けているか、それを僕に報告しろと言うとくわけ。そういう心理を読み取るしかなかったね。

 土地の境界線の争いのときは、原告の主張と被告の主張のずれを、図面を触って確認して主張しあうことはできますよ。ところが、原告の主張する境界線と僕の主張する境界線が、現地ではどこの位置に当たるか、目の見えない僕には無理です。「これが俺の一つの限界やなあ」と思いました。

 色もそうや。殺人事件で血のりの固まった包丁が出てくる。触ることは絶対に許されません。証拠調べでもビニールの袋に入ってる。そのときに、その血がどこについているかというのは極めて重要。例えば、出刃包丁を腹に突き刺したときに、先っちょなんかに血はつかない。もっと柄に近い方につくんです。出刃包丁がどれだけ刺さったかが分かる。そんなことは、知識で知ってるけど、事務員に説明して、事務員から説明を聞いて、どういう出刃包丁の使い方をしたか、自分で考えないとあかんわけ。

 事務員と組むとはいえ、弁護士の立場で検事に対応するのは、大変なんですよ。「目が見えなくても何でもできます」と軽口はたたけない。でも、目が見えないから「俺は半人前だ」と思いたくない。弁護士の三十五年間の葛藤でしたね。

 −そういえば、点字はいつ学ばれたのですか。

 盲学校に入ったとき、誰も学校の先生は点字を教えてくれませんでした。同級生とかが、中途失明で点字も知らないと分かっていますから、僕に教えてくれるんですよ。そのうち、四歳年上の女性と点字で文通することによって、点字を覚えました。私の伝記には、常に女性ありなんですよ。

 <たけした・よしき> 1951年2月、石川県輪島市生まれ。中学3年のとき、部活動の相撲部の稽古中、外傷性網膜剥離になり失明した。石川県立盲学校理療科、京都府立盲学校普通科専攻科を経て、71年に龍谷大法学部へ進学。在学中から通算9回の受験を経て、81年に司法試験に合格した。京都弁護士会(京都市)に所属し、94年に個人事務所を開設した。93年、生活保護の違法な打ち切りや不支給による損害賠償訴訟で勝訴、2004年には、警官誤射事件で山口組の組長を相手取り、最高裁で勝訴するなど、人権擁護活動に取り組む。障害者差別解消法の制定にも携わった。内閣府障害者政策委員会委員、日本視覚障害者団体連合会長。

◆あなたに伝えたい

 「目が見えなくても何でもできます」と軽口はたたけない。でも、目が見えないから「俺は半人前だ」と思いたくない。弁護士の三十五年間の葛藤でしたね。

◆インタビューを終えて

 これほどハンディをものともせず、果敢に生きる人がいるだろうか。取材しながら、多くのエネルギーをいただいた。

 盲学校へ進学するときの思いを尋ねると「元気でした」。盲学校では、弱視の生徒を誘って、寄宿舎を抜けだしたこともあるといい「たこ焼き屋でビールを飲んで帰って、どつかれましたけどね」とちゃめっ気たっぷりに話す姿に「見えてるんじゃないか」と錯覚するほどだった。

 同時に、人の何倍も苦労したからこそ、目に見えない大切なものが、竹下さんにはより見え、弱者の思いをすくい取ってこられたのだと感じた。伝記の続きを、また伺いたい。

 (浅井弘美)

 

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