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あの人に迫る

山田善二郎 「鹿地亘事件」生き証人

写真・中西祥子

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◆軍隊の闇の部分、今に通じる問題

 戦後の占領下にあった一九五一年十一月、神奈川県藤沢市で一人の日本人作家が拉致された。連合国軍総司令部(GHQ)直属の秘密工作機関「キャノン機関」による事件は、翌年十二月に被害者の鹿地亘(一九〇三〜八二年)が解放され、国会でも取り上げられるなどして世に知られた。その救出を導いたのが当時二十代前半の日本人青年。川崎市の監禁先で働いていた山田善二郎さん(91)だった。

 −事件から七十年近い。「鹿地亘事件」とは。

 藤沢市の鵠沼海岸を散歩していた鹿地さんが数人の米国軍人に拉致、監禁され、文化人の立場で米軍に協力するよう強要された事件。当時は朝鮮戦争の最中。米軍の出撃基地となった日本では、平和を求める国民が米日二つの権力に弾圧される最中の事件でした。

 −鹿地さんとの出会いは。

 私は九段中学(東京)で軍国主義に染まり、十五歳で予科練に志願。飛行練習生でしたが、燃料が無くて訓練できずに終戦を迎えました。英語が少しできたので進駐軍の将校クラブで働き、その紹介で横浜にあった将校の家でコックに。その将校がキャノン機関のジャック・キャノンでした。

 キャノンは当初、私がどんな人間か警戒していましたが、ある日、私のいる台所に来て「おまえは朝鮮戦争をどう思う」と尋ねてきました。「北朝鮮の侵略軍に対し、日本も軍備を持たなくてはならない」と答えると、キャノンは満足そうに笑い「そのうち軍隊をつくってやる」と言いました。それ以降は米国のたばこをたくさんもらいました。

 信頼され、川崎市内にあった機関のアジトで、監禁された人と兵隊の食事を作ることに。私は米国側の人間となったのですが、兄が戦中に中国で消息を絶つなど私の家族は窮乏のどん底で。大切な収入でした。

 戦争孤児の少年とか何人も監禁されました。「お客さん」と呼びました。五一年十一月、二世のウイリアム・光田軍曹に「今度のお客さんは結核の重症患者だ。(消毒液の)クレゾールなどを購入してくれ」と言われました。それが鹿地さん。監禁された人には私が食事を運ぶ役でしたが、鹿地さんにだけは近づけさせず、光田が運びました。

 −なぜ助ける気持ちに。

 十二月二日の朝、光田に鹿地さんの部屋に呼ばれました。でもベッドに姿がない。電灯が天井から落ち、ネクタイとタオルが結び付けられていました。自殺を図ったと気付きました。

 部屋にはトイレが二つ並んでいて、右のトイレからザーザーと呼吸音がしましたが、内側から鍵をかけられ開きません。私は左のトイレに入り、懸垂で仕切りの上の隙間から右側に入りました。クレゾールを飲んだらしく、鹿地さんの意識はありません。光田が見つけた紙切れに書かれた遺書には「信念を守って死にます」と書かれていました。その言葉、命を絶とうとした姿を見たら、「この人をなんとか助けたい」との思いに駆られていました。

 この自殺未遂以降、光田は怖がって。私が鹿地さんに食事を運び、鹿地さんとのおしゃべりも豊かになりました。

 日本人従業員を管理するロイ・尾崎に、鹿地さんのことを、プロレタリア文学運動に参加して国内で弾圧を受け、中国に亡命して反戦活動をした国際的な著名人だと聞きました。「中国事情にも詳しいから米国の協力者に仕立てるため拉致、監禁したのか?」と考えると、「信念を守る」の意味が理解できました。光田も「お客さんは、俺たちに協力してくれないかなあ」と漏らしていました。

 鹿地さんが神奈川県茅ケ崎市の建物に移されると聞き、五二年二月、私が「これを機会に私はここを辞めたいから、ついでにご家族に連絡をとりましょう」と言いましたら、鹿地さんは非常に喜びました。

 ご家族への手紙は休日に、鹿地さんが遺書の宛先にしていた内山完造さんを介して届けました。日中文化交流の懸け橋と知られた書店主です。店に向かう途中で警察官に会いドキッとしました。留守でしたが弟さんが応対してくれました。

 −監禁が外部に伝わった。

 二度目は内山さんに「鹿地君に子どもは元気だと伝えて」と言づてを頼まれました。内山さんの店にも警察がよく来るから、ヒソヒソ話です。伝えると鹿地さんは安堵(あんど)の表情で何度も「ありがとう」と言って。「やって良かった」と思いましたが、不法監禁の事実を外部に漏らしたことが発覚すると自分はどうなるか、不安な日が続きました。

 スタッフのふるう暴力を理由にして六月、私が辞めて両親のいる伊豆に戻る時、鹿地さんから娘さんへの遺書を託され、ボストンバッグの一番下に隠しました。ハワイ生まれのジェイムス・川田軍曹が車で送ってくれたのですが、まず逆方向の東へと走りだして。別の場所に連行されるのかとゾッとし、慌てて「方向が違う」と言いました。

 私はその後、横須賀の米海軍基地で働きましたが、九月に鹿地さんの監禁が英文の怪文書でマスコミに流れました。十月、光田が私の行方を追っていると知り、焦りました。十一月には情報の出所として「山田とか言って伊豆に住んでいる」と週刊誌に書かれて。

 −身に危険が及ぶのでは。

 そう。全身がガタガタ震えて。人生で一番怖かった。書いたマスコミが、鹿地事件の向こう側とツウツウになって私を威嚇しているんだと勘繰りました。

 でも別の新聞記者が、会社や下宿先に泊めてくれて。内山さんと相談してかくまってくれた。その時、社会党(当時)の衆院議員猪俣浩三さんに国会で事件を明るみに出してもらい、私を消す意味をなくそうと決めました。十二月六日、内山さん、猪俣さんらと記者会見に臨んだ私は、やせこけた顔で、監禁の事実を訴えました。翌七日、鹿地さんが明治神宮外苑近くで解放され、帰宅しました。

 −十二月八日の衆院法務委員会の会議録に、そのことが残されていますね。

 はい。十日には鹿地さん自身も法務委で証言に立ち、「殴り倒されて、両手を後ろにねじ上げて車に引きずり込まれた」と拉致された状況を話しました。

 しかし、外相が当初「そんなことは考えられない」と答弁するなど米軍の犯罪を覆い隠すかのような政府の姿勢を見て。国内の日本人拉致事件でも相手により態度が違うんですね。このままではやはり消される、と不安になりました。

 その後も、鹿地さんをソ連(当時)のスパイだとでっちあげてまで、被害者を「犯罪者」に仕立てる動きがありましたが、五三年八月には法務委で鹿地事件を「不法監禁の疑いがある」と結論し、スパイの件は六九年六月に東京高裁で鹿地さんに無罪判決が出ました。

 −鹿地亘事件の意味は。

 「民主主義の国」米国の行為、隠された闇の部分を、いわば内側にいた私が暴露したことも、国会の場で究明されたことも、歴史的な役割があったと思います。

 でも、東京・中日新聞も報道してきたように、米中枢同時テロ(二〇〇一年)の後、米中央情報局(CIA)が確証もなしに「敵戦闘員」と見なした人々を拉致、監禁して拷問したことなどは、同じことの繰り返しに見えますね。

 軍隊には特殊なスパイ組織がつくられる伝統があります。なのに国内では自衛隊を通常の「軍隊」「国防軍」にしようとする動きもあります。今につながる問題と知ってほしいのです。

 <やまだ・ぜんじろう> 1928年新潟生まれ。東京で育つ。43年に九段中学を中退し、海軍甲種飛行予科練習生として三重海軍航空隊に入隊。敗戦で除隊となった後、46年以降はキャノン機関、横須賀米海軍基地などで勤務。その途中で鹿地亘事件に遭遇した。鹿地事件を通して知った日本国民救援会に誘われ、スパイの疑いをかけられ電波法違反事件で裁判中だった鹿地への支援を訴える目的で53年から同会専従職員に。同裁判は69年に東京高裁が一審の有罪判決を破棄して鹿地を無罪とし、検察側の控訴を退けて終結した。その後も、冤罪(えんざい)事件や弾圧事件などの犠牲者救援活動に取り組み、92〜2008年に同会中央本部会長。現在は顧問。

◆あなたに伝えたい

 軍隊には特殊なスパイ組織がつくられる伝統があります。なのに国内では自衛隊を通常の「軍隊」「国防軍」にしようとする動きもあります。

◆インタビューを終えて

 川崎市を拠点に社会問題にも切り込む劇団民芸のスタッフに「近くにすごい人がいる」と山田さんを紹介された。お年も考え、健康状態が良好な時を選んで複数回、ご自宅を訪ねた。

 「キャノンも、猪俣先生も、鹿地さんも亡くなった。私はその分、長生きしなければ」と決意していた。「アジト」の見取り図を描いてつまびらかに説明する姿に、その思いが表れる。

 「鹿地さんは髪の毛を染めて国会に立ったことがある。そのままの姿でないと、当時は特に、疑いを持つ人も出たと思う。あれは良くない」とも話していた。フェアに、支えた人への批判も語る証言者であろうとしていた。かくありたい、と思う。

 (山本哲正)

 

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