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あの人に迫る

十菱駿武 「戦争遺跡」保存活動代表務める考古学者

写真・木口慎子

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◆暗さ寒さの実感 平和考える力に

 終戦から七十年以上たち、戦争体験を語れる人は少なくなっている。その記憶を後世につなぐ存在として、全国にある「戦争遺跡」の重要性と、文化財としての保存を強く訴え続けているのが、戦争遺跡保存全国ネットワーク代表で、山梨学院大客員教授の十菱駿武さん(74)だ。自身の専門である考古学の立場から「遺跡は後世に地域の記憶を伝えていくもの。平和のために、近代に起こった戦争の歴史を残す必要がある」と語る。

 −「考古学者として遺跡を調査する中に、戦争遺跡があった」と常々語っています。そもそもの考古学との出合いは。

 一九五〇年代にさかのぼります。小学六年生の社会科の授業で見た、月の輪古墳(岡山県)の発掘記録映画では、地域の住民や学生も発掘調査に参加していたんです。中学二年生の時に、新聞記事で東京都世田谷区で大蔵遺跡と喜多見稲荷塚古墳の遺跡調査をすると知りました。映画の記憶が残っていて、当時の学校長に掛け合って発掘に参加させてもらったんです。

 現場では、後に日本考古学協会会長になる、当時は早稲田大講師だった桜井清彦先生(故人)に出会いました。実際に縄文遺跡を発掘し、古墳の副葬品の太刀を見つけました。発見直後の新鮮な発掘品を見られる貴重な体験。自分で発見した、古代の人が作ったものに触れられる感動は、博物館などに展示してあるものを見るのとは大きく違うと感じました。

 この経験があってから、世田谷区史編さん室に毎週のように通い詰め、過去の発掘の写真や資料を見るようになりました。そのうち桜井先生の元で学びたいと考えるようになり、一浪して早稲田大の第一文学部に進学。考古学研究室に入りました。

 −平和運動にも早くから関心を持った。

 高校一年だった六〇年、社会科教員の誘いで、安保闘争の国会前でのデモ行進に参加しました。単に誘われたから行った、というだけでしたが、そこで、トラックで乗りつけた一隊がこん棒を振り回しながらデモの参加者に無差別に殴りかかっているのを目の当たりにしました。平和を守るために参加した人が攻撃される光景に、権力への反骨心が芽生えました。学生時代も国会前でのデモや、学費値上げに反対するストライキなどに参加しました。

 −考古学と平和運動がご自身の中でどうやってつながったのでしょう。

 高校や大学時代のデモなどを通じて、考古学をやりながら現実の社会をどう変えていけるのかを考えるようになった。「古代史と現代はつながらないじゃないか」と友人からは言われましたが、六四〜七〇年ごろ、月の輪古墳の発掘を指揮した考古学者の和島誠一さん(故人)らが中心となり、平和運動と遺跡保存をつなげる動きが出てきていました。英国の歴史家、故エドワード・ハレット・カーは「歴史とは現在と過去との対話である」という言葉を残しています。歴史は連続性のあるものであり、歴史を学ぶことは現代の平和を考えることにもつながるという認識が広く浸透し始めたんです。

 当時は、戦争の悲惨な記憶を残すかどうかで揺れていた広島市の原爆ドームの保存問題もありました。日本考古学協会の学者らが、保存を呼び掛けるなど、近代の戦争遺跡を残そうと動いたんです。私も若手メンバーとして参加しました。遺跡を残し、文化財を保存することで過去や現代を検証する。それは古代の遺跡も近代の施設や遺構も同じことなんです。

 −戦争遺跡の保存運動にかかわる契機は。

 私の専門は縄文から古墳時代の水晶や山梨県史ですが、近代の遺跡は、古代や縄文時代と現代のつなぎ手となり得る。考古学者として遺跡を調査する中に、戦争遺跡も含まれているにすぎません。ですが、戦争遺跡を調査し、その価値を明らかにすることは、現代の平和問題につながり、戦争を後世に伝えていくことになると思い、意識的に取り組んできました。

 長野市の松代大本営皆神山地下壕(ごう)や、東京都八王子市の浅川地下壕などを調べ、その結果を書籍などにして発表しました。

 そうして九六年、横浜市で戦争遺跡保存のための全国学会をつくるから中心になってくれとの話が来ました。戦争遺跡への社会的関心が高まった時期です。民俗学や軍事史などのはざまで開拓されたテーマであり、考古学として新しい発見があるとされました。九八年の日本考古学協会の沖縄大会で取り上げられたことも要因でしょう。社会的なニーズがあると感じて参加の意思を固めました。

 −戦争遺跡保存全国ネットワークの活動内容は。

 戦争遺跡は全国に五万件あると言われていますが、そのうち文化財として指定登録されているのは、私たちの調べでは三百件程度にとどまっています。老朽化や開発で消えていくものも少なくない。だから、戦争の実相を調査研究して記録し、戦争遺跡を史跡・文化財として保存するよう働き掛けなければならない。そのために戦争遺跡を調査し、見学会なども開催します。毎年、全国シンポジウムを開いて現状や課題を話し合って情報を交換し、市民や学生とも交流を図る。毎回二百〜四百人が参加します。二〇一九年の全国シンポは八月に熊本県で開きました。

 −終戦から七十四年。戦争遺跡の重要性が増してきています。

 戦争体験者が減少していく中で、戦争の記憶は人からモノへ−と言われてきました。モノにも語り手が必要で、それは現代を生きる人です。その人たちが戦争遺跡に何を語らせ、何を伝えさせるのかが大事です。

 熊本でのシンポの基調報告でも話題にのぼりましたが、戦争遺跡への関心の広がりは、必ずしも戦争の実相や悲惨さを追究するというばかりではありません。戦争遺跡の解説や展示を巡って、事実の隠蔽(いんぺい)や歴史的背景の欠如など憂慮すべき事例も見られます。

 安倍政権の下、政府は安保関連法を強行成立させ、日本が国外で戦争する国になったことを公言した。憲法改正が現実味を帯びつつある中で、右傾化は今後さらに強くなるでしょう。私たちが危惧しているのは、戦争遺跡が戦争の肯定や賛美に利用されてしまうことです。戦争遺跡をいかに強固な平和の砦(とりで)とするのかを考えてもらえるようにしなければなりません。

 −取材を通して初めて、地元の人にすら忘れられている目立たない戦争遺跡がたくさんあると知った。若い世代に戦争遺跡に関心を持たせ、語り手を育成するにはどうすれば。

 例えば、山梨学院大のサークル「考古学研究会」のメンバーを戦争遺跡に連れて行き、地下壕の中へ入ってもらいました。実際の暗さや温度といったものを体験し、当時の人々がどういったことを感じたかを想像する。つまり、歴史を想像する力を養うのです。

 現物が残っていれば、戦争にかかわる何かが実際にそこであったということを感覚的に学びとれる。七十年以上も前の人たちが、暗く、寒い場所で、食料にも苦しんだ事情を追体験できます。たとえ疑似体験でも、実体験を持つことで、現代はどういう時代か、未来はどんな時代でなくてはならないかを感じ取ることが大事なのだと思います。

 決して歴史の専門家にならなくてもいい。ですが、自分がつかんだ感覚を、家族や友人らにも伝えてもらう。それらが繰り返されて、百人のうち九十九人が少しでも実相を知っているということが大切になってくるのだと思います。

 <じゅうびし・しゅんぶ> 1945年、東京都生まれ。80年、早稲田大大学院文学研究科考古学専攻博士後期課程単位取得中退。82〜85年、東京都世田谷区遺跡調査会調査団長を務める。85年から山梨学院大に勤務し、翌年、同大一般教育部教授に。2012年から同大客員教授。専門は縄文から古墳時代の水晶、山梨県史など。1997年から戦争遺跡保存全国ネットワークの共同代表を務め、全国へ戦争遺跡の調査に出向き、シンポジウムを開催している。著書に「しらべる戦争遺跡の事典」「しらべる戦争遺跡の事典 続」(柏書房)など。

◆あなたに伝えたい

 危惧しているのは、戦争遺跡が戦争の肯定や賛美に利用されてしまうことです。戦争遺跡をいかに強固な平和の砦(とりで)とするのかを考えてもらえるようにしなければ。

◆インタビューを終えて

 十菱さんが住む八王子市で、三時間にわたって「浅川地下壕」を案内してもらった。太平洋戦争末期に陸軍の発注で山稜に掘られ、航空機エンジン製造の地下工場として使われていた地下壕だ。

 十菱さんに連れられ、到着したのは一軒の民家。家主らに許可を取り裏手に回ると家屋で隠れていた地下壕への入り口が姿を現した。中は不気味なほど真っ暗。十菱さんは足首まで漬かる水たまりにもお構いなしに進み、懐中電灯で照らしながら説明してくれた。

 記者が住む三重県伊勢市にも戦争遺跡はあるが、物置代わりになっているところも。遺跡をただのモノにしてしまわないためにも、今、しっかり目を向けたい。

 (足達優人)

 

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