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あの人に迫る

岡田卓也 プロバスケットボール選手

写真・立浪基博

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 国内でバスケットボール熱が高まる二十年以上も前から、本場・米国でプレーを続ける選手がいる。静岡市出身の岡田卓也さん(42)。米国に挑む日本人の先駆者の一人で、現在も日本人チーム「静岡ジムラッツ」を率いて米の独立リーグで戦い、その経験を小中高生に伝えている。最終目標は「世界で活躍する選手を静岡から輩出する」ことだ。

◆米国に勝ちたい だから挑戦続く

 −米国のバスケットボールにあこがれたのはいつごろですか。

 中学生の頃、マイケル・ジョーダン(バスケの神と呼ばれるスター選手)が活躍していた時代でした。彼のダンクシュートやダブルクラッチ(空中でシュートフェイントを入れる技)を見て、何度も練習したのが最初です。

 日体大(東京)に進学したのは教員になるためだったんですが、大学の帰り道にある駒沢公園でストリートバスケに熱中しました。ここにはバスケ好きが集まって、米国人などの外国人も一緒にプレーしていた。みんな、負けず嫌いでうまかった。価値観をしっかり持った人たちで、毎日プレーするのが楽しかった。ここで個人のスキルを高め、部活では体力づくりを学びました。

 マイナーでもいいから米国でバスケがしたいと思い、在学中に語学留学や、ペニー・ハーダウェイ(一九九〇年代に米プロバスケットボールNBAで活躍したスター選手)の主催するキャンプに参加するため、何度か渡米しました。キャンプでは一対一(文字通り、一対一で対決する)のトーナメントで優勝して、ペニーとも一対一をしました。本当にすごくて、NBAのトップ選手の実力を体感できましたね。

 −卒業後に単身で本格渡米した。

 CMの関係で知り合ったナイキの人に「米国でバスケをしたいなら実際に行けばいい」と言われて渡米しました。ペニーのキャンプで活躍したおかげで、ナイキのサマーリーグとか、マジック・ジョンソン(八〇年代にNBAで活躍したスター選手)のオールスターチームに参加させてもらった。NBAのオフシーズンにはNBA選手とも一緒にプレーさせてもらえました。

 初めは観光ビザしか下りなかったので、三カ月プレーしては帰国してスポンサーを集めたり、フィットネスクラブや焼き肉屋でアルバイトしたりして、渡米資金を稼いでいました。その後は現地の語学学校に入学して、学生ビザで滞在しながらプレーしていました。

 「ジムラッツ」は、ロサンゼルスでフリースタイルバスケ(ボールを扱う技術で観客を魅了するパフォーマンス)を披露するため、当時米国に挑戦していた選手たちとこの時につくりました。ジムラットは「体育館のねずみ」という褒め言葉。著名なコーチから「おまえは本当にいつでもジムで練習している。ジムラットだね」と言われたことが由来です。この頃からジムラッツとして、帰国時に日本の小中高生にバスケを教え始めました。

 −一時帰国し、日本リーグで三年間プレーした後、再び渡米した。

 実は選手を辞めて、小中高生の指導など、ほかの仕事を始めようと思っていたんです。最初の渡米時に生まれた娘の住民票を取るためにということと、友人の結婚式に出席するために渡米したんですけど、そこである米国のリーグの関係者から「ABA(米独立リーグ)のトライアウトに出てほしい」とスカウトされたんです。そこで活躍して契約することになりました。本当にトントン拍子。バスケットシューズは持っていたのですが、着替えとかはなかったので、現地で購入しました。妻にはあきれられましたけど、いまがあるのは娘のおかげです。

 −二〇一〇年に日本人チームを結成したのは。

 ABAに参加した最初の年に中国人だけのチームがあり、めちゃくちゃ強かった。そこからNBAに行く選手もいたほどで、バスケにおいて中国は日本よりも進んでいると感じ、「日本人チームをつくらないと」と思ったのがきっかけ。当時米国挑戦していた日本人の仲間をかき集めてつくりました。

 最初は大変だった。リーグ中は全米を飛び回るのですが、飛行機代は高かったので、移動はバスかレンタカー。宿泊するにも一つのベッドに二人で寝たり、雑魚寝したりして過ごしました。リーグの運営も当時は安定せず、会場に行っても試合がキャンセルになるかもという不安が一番つらかったです。

 −なぜ毎年、若い選手を募って参戦しているのか。

 ハングリー精神を養えることが大事です。日本や海外の環境が整っている場所で選手を目指して、マイナーの悪い環境で修業できるのは良いことです。

 選手たちは自腹で飛行機代や生活費を出すことを基本としています。足りないところはこちらでフォローしていますが、プロを目指すなら成長のために自己投資をしないといけない。選手には、お金を稼ぐ大変さを学んでほしいというのはありますね。甘い世界ではないですから。

 昨季は日本で募集して一緒に海を渡った高校三年生や、二十代の若者ら日本人を中心にチームを構成して三勝十八敗。前シーズンは一勝もできなかったので、攻守でチームの約束事を決めて臨みました。高さやフィジカルでは勝てないので、シュートの精度を上げることを意識しました。参加チームはすべて強くてトップ10のチームにはボコボコにされましたけど、中堅チームを倒すこともできた。来季につながる良い結果だったと思います。

 −国内では小中高生の指導に力を入れている。

 元々教員を目指していたので、人に何かを教えるのが好きなんです。日体大時代も高校生を教えていました。いろんなバスケの考え方を学べて、プレーヤーとしてプラスにもなりますから。あと、NBAのスター選手から学べたことを教えられるのは僕だけだと思いますしね。

 −将来の目標は。

 僕が昔から米国挑戦にこだわっているのは、米国に勝ちたいという思いからですが、いまの日本代表が米国に勝つには難しい。まだ何十年もかかると思います。ただ、世界で活躍する選手の育成はできると思います。サッカーが強い静岡では、何人もの静岡出身のサッカー選手が海外で活躍しました。サッカーでできて、バスケでできないことはない。

 八村塁選手(21)=富山市出身。NBAのドラフトで日本人として初めて一巡目で指名され、今年契約=に続く世界で活躍する選手を静岡から輩出すること。それが最終目標です。

 日本のバスケ熱は高まっていますが、二〇年東京五輪以降もその熱を維持しないといけません。八村選手に続く選手をどんどん出さないと。Bリーグ(日本のプロリーグ)をつくることは僕にはできないけど、選手を育てる環境づくりは僕にしかできないことです。僕らが味わった教訓をどう伝えるのかが鍵だと思っています。そこはぶれないように、自分の経験を伝えていきたい。

 <おかだ・たくや> 1977年、静岡市生まれ。小中学校は市内で育つ。バスケットボール好きの母親の影響で小学4年でバスケを始め、日大三島高、日本体育大卒業後に単身渡米し、日系人リーグなどで研さんを積む。日本リーグ2部(当時)のさいたま(現・埼玉)ブロンコスで3年間プレーした後の2005年、再び単身渡米し、米独立リーグ・ABAで5年間活躍。10〜11年シーズンに日本人中心のチーム「静岡ジムラッツ」を結成。以降は毎年ABAで高校生から20代の選手とともに出場している。国内では、全国の小中高生を対象にした教室を開いて後進の育成に力を注ぐほか、20年東京五輪で初めて正式種目になる3人制バスケットの指導・普及も手掛ける。

◆あなたに伝えたい

 プロを目指すなら成長のために自己投資をしないといけない。選手にはお金を稼ぐ大変さを学んでほしいというのはありますね。甘い世界ではないですから。

◆インタビューを終えて

 大学時代からぜひとも話を聞きたかった憧れの岡田選手。仕事の合間に今もバスケに熱中する一人として、米国挑戦にこだわる真意を聞いてみたかった。彼の口から出てきた「米国を倒したかったから」との言葉は、正直驚きを隠せなかった。先日行われたワールドカップで、日本代表は米国に圧倒的な力を見せつけられた。NBAに一巡目指名された八村塁選手の活躍で国内のバスケットボール熱がさらに高まり、岡田選手のような人が増えれば、米国を破る夢がいつかかなうかもしれない。そんな日が訪れることを強く強く願っている。

 (広田和也)

 

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