トップ > 特集・連載 > あの人に迫る > 記事一覧 > 記事

ここから本文

あの人に迫る

中山佑介 アスレチックトレーナー

写真・横田信哉

写真

◆年齢に関係なく 皆がアスリート

 プロバスケットボールの最高峰、米NBAで、選手をけがから守るアスレチックトレーナーとして活躍した中山佑介さん(36)はいま、「子どもからお年寄りまで、すべての人がアスリート」と話す。苦難を乗り越えてたどり着いた夢の舞台を離れ、次のステージに選んだのは滋賀県草津市だった。

 −アスレチックトレーナー(AT)とはどんな仕事ですか。

 アスリートに限らず、体を動かす人たちの健康や運動時の安全を支えるための認定資格を持つ人を指します。米国では国家資格です。病院では医者を支える役割。劇団、米航空宇宙局(NASA)など、体を動かす人がいる場所に需要がある仕事です。

 −NBAで心掛けたのは。

 選手をより良い状態で試合に臨めるようにすること。けがのリハビリや予防、筋肉へのアプローチ、呼吸のトレーニングなどで選手の状態をコントロールし、パフォーマンス向上を支えてきました。

 選手の医療情報の管理も大事で、自分たちの医療行為を細かく記録していました。この情報はトレードやフリーエージェント(FA)の際にも使うため、情報管理を怠ると交渉がうまくいきません。億単位のお金が動きますので、常に準備を整えています。チームが獲得したい選手がプレーできるのかも調べ、相手チームから十分な情報が得られないときは「獲得のリスクがある」と伝えることも。

 −バスケットボールとの出合いを教えてください。

 幼稚園から剣道をやっていたのですが、中学には剣道部がありませんでした。何部にしようか迷っていた小六の春休みに、スラムダンク(井上雄彦さんが描いたバスケ漫画)を読んで、これだと。お気に入りの選手は宮城リョータ。当時は背が低かったですから。主人公の桜木花道に自分を重ね練習を頑張りました。

 −高校でもバスケを続けました。

 練習をすればするほど、できなかった動きができるようになり、自分の体に「発見」を感じるようになりました。その動きを再現すると、また新しい発見がある。これまでドリブルで抜けなかった先輩に、違うタイミングでフェイントを入れて通用した時は本当に楽しかった。この経験が身体に興味を持ったきっかけなのかなって思います。

 −ATに興味を持ったのはいつですか。

 早稲田大スポーツ科学部(現)二年時に、米国でアスレチックトレーニングを学んだ先駆者の中村千秋先生(元早大スポーツ科学学術院准教授)と出会いました。これを勉強したかったんだと思い、先生のゼミを希望しました。

 本格的に将来を考え始めたのは三年生の終盤。バスケばかりしていたので、資格があるわけでもなく、スポーツの現場では働けない。さらに勉強しないといけないと思い、中村先生に相談したら「米国に行けばいいじゃん」。相談前は渡米なんて選択肢すらなかったのですが、そこから英語を勉強し始めました。

 −渡米後は。

 英語が分からなかった。思ったよりも、ではなく全然でした。最初にいたウィノナ州立大の一年間は相手の言っていることが分からない。どれだけ勉強しても点が取れないし、グループワークで「グループになれ」っていう先生の言葉も分からない。無力感、ゼロからのスタートでした。

 ただ、帰国したいと思うことはなかった。米国に送り出してくれた両親の気持ちに応える覚悟がありましたから。街角や体育館には必ずバスケのゴールがあり、現地の人たちがバスケをしている。言葉が分からなくても、バスケができることを証明すると仲間になれた。居場所があったのは大きかった。

 −NBAのチームなどでのインターンを経て、クリーブランド・キャバリアーズに入団しました。

 二〇一三年に、アシスタントAT兼パフォーマンスサイエンティストとして採用されました。選手のケアや医療情報の管理に加え、スポーツ科学の最新の研究論文を正しく読み、現場で生かすことも求められました。

 −二年目に、スーパースターのレブロン・ジェームズ選手(現レーカーズ)が移籍してきました。

 彼は、故郷・クリーブランドに優勝をもたらすために戻ってきました。その覚悟はほかの選手と比べものにならない。練習一つ一つの動きにその覚悟を感じました。勝利への執念が強く、勝ちに対するこだわりがすごかった。自分が優勝したいのではなく、故郷に優勝をもたらしたいと。地域貢献活動を見てもアスリート以上の存在でしたね。

 僕は適切な距離を保って仕事をしていました。僕の中では十五人いる選手の一人。ほかの選手に対してもフェアでないと、プロとしての仕事ができない。

 −ほかに印象深い選手はいましたか。

 マシュー・デラベドバ選手(オーストラリア代表のガード、愛称デリー)。とにかく礼儀正しい青年で、より良いアスリートになるために自分の生活をすべてささげていた。彼には呼吸に重きを置いたアプローチをしました。時間を見つけては僕のところに来てくれて、体のバランスを保つ呼吸法を学んでくれました。

 アプローチをする際、選手にどんな体の変化が起きるかを事前に伝えておきます。彼に伝えたことの一つに、ジャンプに違いを感じるはずだと伝えていました。ある試合前、デリーが「あのダンク(シュート)を見てくれたか」って言いに来てくれました。これまでとは違う躍動感があるダンクができたことを報告しに来てくれたんです。もちろん、彼のプレーが良くなったのはコーチの指導や彼自身の努力ですけど、僕のアプローチに効果を感じて、それを伝えに来てくれたことがうれしかった。

 −ATとして一番意識していたことは。

 練習や試合で選手の安全を確保することです。自分の技術が変わってもこれは変わらず一番大事。これをやらなくなったら、現場を引退するべきだと思います。チームの勝ち負けよりも、選手が無事に一日を終える方がうれしいですね。そのためにも、想定外のけがをなくす準備を徹底していました。

 −帰国したのはなぜですか。

 NBAの仕事は家族の負担が大きく、これ以上続けるのはダメだと思いました。遠征ばかりで、家族との時間がかなり限られていましたからね。米国の銃犯罪の影響も大きく、子どもを育てたいと思えない場所になってしまった。

 自分の施設を持ちたいという夢がずっとあった。将来的にはバスケコート付きの施設を造りたいとずっと思っていました。滋賀を選んだのは子育てのしやすさ、大都市へのアクセス、自然の多さも考慮しました。

 −滋賀県でトレーニング事業を始めた。

 僕にとって、子どもからお年寄りまでのすべての人がアスリート。スポーツをしていてもいなくても、レベルに限らず、すべての人のパフォーマンスを向上させ、体の制限を取り除き、人生にポジティブな影響を与えたい。僕が影響を与えた人たちが、ほかの場所で良い影響を与えてくれたら。それが、僕ができる社会貢献だと思います。

 <なかやま・ゆうすけ> 1983年、静岡県清水町生まれ、裾野市育ち。早稲田大スポーツ科学部(現)入学を機にアスレチックトレーナー(AT)に魅力を感じ、卒業後の2005年に渡米。米国公認のATの資格や博士号を取得したほか、米プロバスケットボールNBAのニューヨーク・ニックスやデトロイト・ピストンズでインターンを経験。13年、クリーブランド・キャバリアーズにアシスタントAT兼パフォーマンス・サイエンティストとして入団し、14年シーズンから4年連続のファイナル(決勝)進出、16年の優勝に貢献した。18年夏に帰国し、19年3月に滋賀県草津市で個人トレーニング施設「TMGアスレチックス」をオープンした。

◆あなたに伝えたい

 スポーツをしていてもいなくても、レベルに限らず、すべての人のパフォーマンスを向上させ、体の制限を取り除き、人生にポジティブな影響を与えたい。

◆インタビューを終えて

 「仕事後に一汗かきたければ、バッシュ(バスケットシューズ)もご持参ください」。取材依頼する際、「バスケに誘ってもらえるのでは」と淡い期待があった。中山さんから返信メールが来た時は思わずガッツポーズしてしまった。

 彼のブログを読めば、記者が期待した理由が分かるはず。バスケ愛にあふれている。あるチームでのインターン中、カメラマンの邪魔になるほど試合観戦にのめり込むなど、バスケ好きならではの話が並ぶ。

 練習中、記者や仲間と会話していてもドリブルを止めなかった中山さん。「ダム、ダム、ダム」の音で会話のほとんどがかき消されていたけど、幸せな時間だった。

 (広田和也)

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山
地方選挙

Search | 検索