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あの人に迫る

永野三智 水俣病センター相思社職員

写真・木口慎子

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◆タブーの扉開き、水俣の苦悩聞く

 水俣病は終わっていない−。そう書くと何となくわかった気になるが、実際、自分はどれだけ理解していたのだろう。水俣病センター相思社(熊本県水俣市)の永野三智さん(34)が患者相談の記録をつづった「みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま」(ころから刊)を読み、痛感した。何もわかっていなかったのだと。

 −患者相談とは。

 相談というより、話を聞いている、ですね。相思社に来て普通にお茶を飲んでいた患者さんが、最後に「実はね」と明かして去っていく。残された私はどうしていいかわからず、混乱を鎮めるため、整理するために日記に書きます。その日記が本のベースです。

 水俣病の認定申請をしたいという相談もありますが、年を取るほどに重くなる症状や水俣病を隠して生きるつらさを、ただ聞いてほしいという人も多い。患者さんたちは、水俣病と認められたい、でも認められたくないと悩みながら「担当者に会えなかったら縁がなかったと諦めよう」とやっとの思いで相思社に来ます。そんな方たちの苦しみが、なかったことにされるなんて耐えられない。本にできて良かったです。

 −東京と東海で集団検診もしています。

 相思社に東京の患者さんから「地元で診てくれる医者がいない」と相談があり、二〇一五年、東京で初めて集団検診を行いました。受診者の半数が新幹線で東海から来た方だったので、一八年に東海でも始めました。これまで東京で四回、東海で二回行いました。

 中学卒業後に集団就職で水俣から各地に働きに出ていった方がたくさんいます。不知火海から遠く離れた場所では水俣病の情報がなかったり理解されなかったり、差別を恐れて出身地を言えなかったりする。東海では、クビになりたくないから会社では元気なふりをして精いっぱい働いて、でも体がしんどくて家では寝込んでいる、という患者さんばかりでした。

 検診には地域の医師にも参加してもらい、水俣病患者をずっと診てきた熊本の医師が診察する様子を見学し、水俣病の理解を深めてもらいます。検診の目的の半分は患者の診察ですが、もう半分は、地域の医師の掘り起こしなんです。水俣の外で暮らしている患者さんたちが少しでも安らかに暮らせるように。協力してくれる医師を募集中です。

 −なぜ水俣病と関わる仕事を選んだのですか。

 きっかけは〇三年に溝口秋生先生の裁判を傍聴したことです。三歳から書道を習っていて大好きだった先生が、亡くなった母親の水俣病認定を巡って裁判をしていて、息子さんが胎児性水俣病であることを初めて知り、衝撃を受けました。

 そのころ私は、幼い娘が水俣出身になるのが嫌で熊本市に住み、出身地も隠していました。私は、学校で水俣病のことは避け、思春期のころからは自分の中でタブーにしていました。でも、裁判に来ていた人たちの間では普通に水俣病という言葉が出てきて、みんなが水俣病のことで悩み、考えてる。その様子に解放されたのです。ここでは「水俣」を隠さなくていい、ありのままでいいんだって。〇七年に水俣に戻り、患者さんの支えになる仕事をしたくて総合病院で受付の仕事を始めました。

 −著書に「水俣で患者を差別し、無視してきた人もまた患者となっている」とあります。

 「水俣病患者がいるから街が疲弊する」などと差別していた人が、何年かたって相思社に相談に来たりします。「私、患者かもしれない」って。

 それは水俣病を巡る制度や偏見のせいでもあるけれど、彼らが水俣病を避けたり差別してきたりしたことも原因です。それは問われないと語れない。ふたを開けることが重要だと思っています。それで、相談に来た人に「どうして今まで手を挙げなかったのですか」とあえて聞きます。すると、就職や結婚など、いろいろ出てきます。

 ただ簡単に、水俣病でした、それで終わり、ではなく、そこで一度立ち止まって自分自身と、そして水俣病と向き合う。そこからその人の水俣病が始まると思っています。始まることで、やっと終わりに近づくことができると思うのです。

 水俣病は惨めな病気ではありません。見苦しくも、恥ずかしくもない。差別してきたことや胸に抱いてきた気持ちを見つめ、患者さん自身が「惨めではない」と思うことが救いになるのではないかと思います。

 −水俣病の終わりとは。

 水俣病のその人、ではなく、その人の中に水俣病があるんです。水俣病を隠しているということは、水俣病に支配されているということ。支配されずに、その人がその人らしく生きられること。それも一つの解決の形ではないでしょうか。

 患者会の三十人くらいで一緒に旅行したとき、ある患者さんが酔っぱらって「俺は生きとって良かった。生まれてきて幸せばい。水俣病になって幸せばい」と言いました。ああ、やってきて良かったと思いました。それだけ聞くと変な言葉ですけれど。

 −水俣病と向き合い続けるのはしんどいのでは。

 水俣は私も含めて、関係が難しいこともあります。でも難しくならざるを得なかった。矛盾の中で生きているから。そういうものも全部ひっくるめて、水俣から離れられなくなりました。

 相談に来た人に怒鳴られることもあります。どう消化していいかわからないから日記を付けておこうと書き始めると、あの人はこういうことが言いたくて怒鳴ったのかもしれないな、ああかもしれないな、と考え始めて、自分が傷ついたことよりもその人のことに意識がいく。そうすると気持ちが楽になって、次に会ったときにこう聞いてみよう、と思います。

 水俣病患者だけでなく、苦しい思いをしている人は全国にいっぱいいる。助けてっていう思いを発せられて、ちゃんと拾い上げられる社会がまっとうではないですか。声に耳を傾けるだけで、社会は変わると思うんです。私がやっていることは、普通の人がやっている普通の仕事です。

 −石牟礼(いしむれ)道子さんには「悶(もだ)え加勢してる」と言われたそうですね。

 一一年ごろにお見舞いに行ったときです。患者さんの話を聞いても何もできない無力感に悩んでいたころで、「苦しんでいる人とただオロオロ一緒に苦しむだけで、その人は少し楽になる」と言われて、ちょっと楽になりました。

 でも今も、「悶え加勢すればいい」とは思っていません。「何もできない」ではなく「何かしたい」と。石牟礼さんには「相思社は魚の骨であってください。国家が水俣病をのみ込もうとしても、たった一本の魚の骨がのどにひっかかっていることで、のみ込めない。そういう存在であってください」とも言われ、背筋がピンと伸びたことを思い出します。患者さんの言葉も、一つ一つが胸に刺さるのですが、それはもう刺したまま生きたいなと思っています。

 (石原真樹)

 <ながの・みち> 1983年12月、水俣病患者の激発地帯とされる熊本県水俣市袋の出月集落に生まれ、患者運動のリーダーとして知られる川本輝夫さんや胎児性患者らを身近に感じながら育つ。中学卒業後に熊本市に出る。2003年、書道の恩師だった溝口秋生さんの裁判の傍聴を始める。07年に水俣に戻り病院で働いた後、08年に一般財団法人「水俣病センター相思社」の職員になり、患者相談や、水俣病の関係資料を展示する「水俣病歴史考証館」の解説を担当する。機関誌「ごんずい」で患者相談雑感を連載。15年から常務理事。17年から水俣病患者連合事務局長を兼任。今年9月に初の著書「みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま」を出版。

◆あなたに伝えたい

 水俣病を隠しているということは、水俣病に支配されているということ。支配されずに、その人がその人らしく生きられること。それも一つの解決の形ではないでしょうか。

◆インタビューを終えて

 初めて水俣を訪れたのはサンデー版編集部にいた二〇一三年。相思社で取材対応をしてくれたのが永野さんだった。あれから五年。全く別の取材で著書の編集者と知り合い、再会した。縁とは不思議なものだ。

 「誰かが(同社敷地内の)歴史考証館にあるものを通して水俣病事件に出合う。そのとき、誰が解説するかで、生まれる空気や言葉が全然違う。そこに立ち会えるのが幸せ」と永野さん。「水俣は広くて、深い。ここにはすべてがある」とも。すべてとは何かを探しに、私もまた水俣に行こう。永野さんのフェイスブックも必読だ。水俣の今が詰まっている。

 

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