<記憶>(1)大垣・興文小の「興文木」 黒焦げから奇跡の再生

2020年8月4日 05時00分 (8月4日 13時58分更新) 会員限定
戦災を乗り越え、子どもたちを見守り続ける興文木=大垣市興文小で

戦災を乗り越え、子どもたちを見守り続ける興文木=大垣市興文小で

  • 戦災を乗り越え、子どもたちを見守り続ける興文木=大垣市興文小で
 青葉の生い茂る枝を力強く伸ばす、高さ十メートルほどのクスノキ。大垣市興文小学校の校庭の一角、水門川に面した正門そばにある「興文木(こうぶんぼく)」は、戦時中の空襲で被爆し、黒く焼け焦げた歴史がある。
 太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年、軍需工場の多かった大垣は三〜七月に六回の空襲を受けた。最も被害が大きかった七月二十九日未明の最後の空襲では、五十人が犠牲となり、家屋四千九百戸が失われるなど、市中心部が焼け野原となった。
 興文木は明治期、大垣藩の学問所の伝統を継ぐ興文学校が現在地に移転した際に植えられた。四五年七月の空襲で当時の興文国民学校は焼失。児童は一之瀬村(現大垣市上石津町)に集団疎開するなどして全員無事だったが、興文木は真っ黒に焼けただれた。その惨状から再生は不可能と考えられたが、翌年、奇跡的に芽を出し、樹勢を取り戻していったという。
 二〇〇一年、学校医を務めていた根本周三さんの遺志により、記念碑が建立された。「この木と共に強くたくましく生きて伝統を高める子になりましょう」と刻まれている。一五年には、明治の移転時に同じく建てられた花こう岩製の正門門柱と合わせて、市景観遺産に...

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