源太夫堀 大雨、氾濫防ぎ 田畑を守る

2020年8月1日 05時00分 (8月13日 17時16分更新)
南の星小学校の敷地に立つ「源太夫堀の跡」石碑

南の星小学校の敷地に立つ「源太夫堀の跡」石碑

  • 南の星小学校の敷地に立つ「源太夫堀の跡」石碑

◆浜松城下 舟運の役割も

 今から300年ほど前のことです。遠州灘の海岸は、天竜川の押し出す土砂で年々埋まり、田畑の排水が悪くなっていました。暴風雨による天竜川や馬込川の氾濫の危険もあり、五島(今の浜松市南区五島地区)の村人は、浜松藩のお殿様に排水路の建設を願い出ました。
 実情を調べたお殿様は、家臣の小笠原源太夫に命じて、天竜川と馬込川を結ぶ堀を造らせました。堀の長さは東西に約4キロ、幅10メートルで、農地の排水だけでなく、浜松城下と天竜川の河口、掛塚港(今の磐田市掛塚)を結ぶ船による物資輸送にも利用されました。完成した堀は、普請奉行の労をたたえて源太夫堀と呼ばれました。この堀は、砂地に素掘りしただけであったため、百年ほどで役目を果たさなくなりました。
 今から200年ほど前、文政年間(1818~29年)に源太夫堀の南側約200メートルの位置に新しく新源太夫堀を掘り、天保年間(1830~43年)に大がかりな浚渫工事を行いました。延べ5万人余りの作業人と千両を超す工事費を使いました。
 1836(天保7)年に作成された新源太夫堀堀直し工事の報告書類によると、くわで土を掘り、もっこで土砂を運び、堤は杭を打ち竹を編んで土留めをした工事の様子が分かります。
 こうして長さ約2・5キロ、川幅18メートルの立派な堀が出来上がりました。
 天竜川から新源太夫堀に入った船は、馬込川に入ると船越村(今の浜松市中区船越町)辺りで荷揚げし、浜松城下まで陸路で荷物を運んだと思われます。城下の荷物を江戸などに送る際は、逆のルートをたどりました。
 新源太夫堀は、排水・物資輸送に加えて、新田開発にも役立ちました。
 掛塚港がさびれ、運河として堀が使われなくなると、堀が土砂で埋まっても直されなくなりました。堀の一部は池になって残っていましたが、戦後の土地改良工事で田畑などに変わりました。
 「源太夫堀の跡」と彫られた石碑が、南の星小学校(浜松市南区西島町)の南東角に立てられています。

<もっと知りたい人へ>
参考文献:『わが町文化誌 太陽と潮風 五島・遠州浜』浜松市立五島公民館編

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