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【石川】真宗王国「御影」が礎 教如、北陸に大量授与

2020年7月27日 05時00分 (7月27日 09時51分更新)
1595年に教如から能美郡(のみのごおり)四講(しこう)に授与された父顕如の御影。能美郡四講は224の村で構成する講組織で現在の真宗大谷派小松教区に当たる=小松教区提供

1595年に教如から能美郡(のみのごおり)四講(しこう)に授与された父顕如の御影。能美郡四講は224の村で構成する講組織で現在の真宗大谷派小松教区に当たる=小松教区提供

  • 1595年に教如から能美郡(のみのごおり)四講(しこう)に授与された父顕如の御影。能美郡四講は224の村で構成する講組織で現在の真宗大谷派小松教区に当たる=小松教区提供
  • 同じく能美郡四講に授与された親鸞の御影=小松教区提供
  • 大桑斉さん=家族提供

「多くの寺院を生んだ」


 戦国時代に天下統一を目指す織田信長に徹底抗戦し、その後、浄土真宗・東本願寺を開いた教如(きょうにょ)。教如が歴代宗主の肖像画である御影(ごえい)を大量に全国の寺院に授与していたことが、今年4月に82歳で亡くなった大谷大名誉教授の大桑斉(ひとし)さん(金沢市出身)の研究で分かった。確認した御影は386点。授与先は「真宗王国」といわれる北陸が多かった。(沢井秀和)
 大桑さんは、御影の大量発給で道場的な場を寺院として再編し、現在の真宗教団の基礎をつくったとみている。これらの成果は遺作となった著書「本願寺 教如教団 形成史論」(法蔵館)に発表した。
 各地の自治体史や実地調査に基づき、全国の寺院に残る御影の状況をまとめた。教如は父顕如(けんにょ)が亡くなり、一五九二年に本願寺を継いでから一六一四年に亡くなるまで御影を授与した。
 授与先は当時の国別で越中六十五、加賀五十六、尾張五十四、能登四十四、越後四十二の順だった。教如が宗主になる前に越中、加賀、能登、尾張、三河は計四十六点が確認されているだけで、教如による授与が突出していた。
 一五九三年に豊臣秀吉の命で弟の准如(じゅんにょ)が宗主に就き、教如は隠退したが、宗主の権限である御影の授与は盛んに続けた。大桑さんは「政権による追放を承認せず、宗主を自認して活動した」と指摘する。
 御影で最も多いのが、顕如の画像で百五十八点。自らの御影が百十五点で次いだ。このほか、宗祖の親鸞八十点、蓮如三十三点だった。大桑さんは「顕如を祖師として、これを相承する者として自らを位置付けた」とみている。
 越中の寺院を調べると、御影授与と寺院の創立時期が重なる寺院が多く、道場的な場が御影授与によって寺院となっていく経緯も明らかになった。大桑さんは御影授与によって多くの寺院が生まれ、寺院と門徒衆が結合して教団の一元化が進んだと強調。「教如は大量の御影により大量の真宗寺院を生み出すことで、教団の構造を変革させた」と述べている。
 教如 (1558〜1614年) 本願寺が織田信長と戦った石山合戦の最末期の1580年、開城を巡り父顕如と対立し、顕如が本願寺を出た後も数カ月こもった。顕如の死後、本願寺を継いだものの、退隠を命ぜられたが、裏方と称して活動を続けた。1602年に徳川家康から寄進を受けて東本願寺を創建した。以後、本願寺が東西2派に分かれる。

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