本心<312>

2020年7月24日 05時00分 (7月28日 00時02分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 それでも、生きていていいのかと、時に厳(いか)めしく、時に親身なふりをして、絶えず僕たちに問いかけてくる、この社会の冷酷な仕打ちを、忘れたわけではなかった。それは、老境に差し掛かろうとしていた母の心を、幾度となく見舞ったのではなかったか。
 僕はただ、母の声を聞きたいだけじゃない。母と対話したいのだった。それこそが、僕の失敗したことだったから。……
 何のために存在しているのか? その理由を考えることで、確かに人は、自分の人生を模索する。僕だって、それを考えている。けれども、この問いかけには、言葉を見つけられずに口籠(くちご)もってしまう人を燻(いぶ)り出し、恥じ入らせ、生を断念するように促す人殺しの考えが忍び込んでいる。勝ち誇った、傲慢(ごうまん)な人間たちが、ただ自分たちにとって都合のいい、役に立つ人間を選別しようとする意図が紛れ込んでいる! 僕はそれに抵抗する。藤原亮治が、「自分は優しくなるべきだと、本心から思った」というのは、そういうことではあるまいか。…… 
 そして、「あなたが今、『もう十分』と言って安楽死を願うとしたら、僕は全力で止めます。あなたが現実を変えようとして努力をするなら、応援します。」という彼の言葉を思い返した。
 僕はやはり、岸谷に伝えたかった。それでも、僕たちが「生きていていいのか」と問い詰める側に立ってしまえば、終わりじゃないか、と。そして、踏み止(とど)まった彼は、そのことを知っていたはずだ、と僕は信じたかった。
 ティリとの待ち合わせのレストランは、日比谷にある複合商業ビルの三階だった。
 以前から、一度お礼がしたいと言われていて、その必要はなかったが、僕も彼女と、会って話がしたかった。フィジカルな僕たちは、あのメロンの日の不幸な出会いの記憶の中に、まだ取り残されたままだった。僕は、彼女のヒーローのままでいたくなかった。あの日、実際には何があったのかを話すことが出来れば、僕たちは、もっと深い感情のやりとりが出来る友達になれる気がしていた。

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