本心<310>

2020年7月22日 05時00分 (7月26日 00時04分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 僕は、本当に殺人の意思があったのかどうかを知りたかったが、係員が聞いているここで尋ねていいことなのか、と躊躇(ためら)った。岸谷は、僕の表情を敏感に察して、
「俺は、今でもおかしいと思ってるよ、今の世の中。……同じ人間として生まれてるのに、こんなに格差があっていいはずない。それは絶対におかしいよ。――絶対に。」
 と言った。僕は、無言で二、三度、頷(うなず)いた後に、
「けど、――その世の中を変えるための方法は?」
 と尋ねた。岸谷は、口許(くちもと)に遣(や)る瀬(せ)ないような笑みを過(よぎ)らせると、顔をひねって視線を逸(そ)らした。恐らく、何度となく取り調べでも繰り返したやりとりなのだろう。
 しばらく考えていた後に、また僕を見て、
「……俺のしたこと、間違ってたと思うか?」
 と訊(き)いた。僕は頷いた。
「人を殺して、世の中は良くならないよ。」
 岸谷は、僕の特段、珍しくもない返答に、何故(なぜ)か虚を突かれたような顔をした。その意味が、僕にはわからなかったが、彼は、先ほどとは違った、僕に対する親愛の情を窺(うかが)わせて、それ以上は続けなかった。
 二人はしばらく、黙っていたが、恐らくそのために、係員に終了時間を促された。あっという間で、実際はまだ十分ほどしか経(た)っていなかった。
 僕は、彼の健康を気遣って、裁判が公正に進むことを祈っていると伝えた。そして、最後に、今日ここに来た目的として、どうしても言っておきたかったことを口にした。
「刑務所から出たあと、アテがなかったら、うちに来たらいいよ。部屋も空いてるから、しばらく、一緒に住んでもいいし。」
 岸谷は、頷くわけでもなく、僕を無言で見ていた後に、
「お前、やっぱり、いいヤツだな。――事件に巻き込まなくて、よかったよ。」
 と、笑みもなく、少し険しい真剣な顔で言った。
 僕はその一言に衝撃を受けた。確かにその可能性は自覚していたが、それにしても、僕と彼との運命は、本当にこの透明のアクリル板一枚程度の隔たりしかないのだという感じがした。

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