本心<308>

2020年7月20日 05時00分 (7月25日 00時47分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 ワゴンの無人タクシーが迎えに来て、荷物を積み込み終えると、二人の間に、どちらが引き取るか、譲り合うような沈黙が生じた。
「色々ありがとう、本当に。――水曜日に、また会えるよね。」
「はい、出勤しますので。イフィーさんによろしくお伝えください。」
 三好の「また会える」という一言が、別れの挨拶(あいさつ)も大袈裟(おおげさ)にさせなかった。
 じゃあ、と車を見送ると、使い残して大分余ってしまった沈黙の処置に困ったが、寂しい反面、少しく解放感も覚えた。彼女への思いとその抑制との葛藤が、自分に強いていた緊張を改めて感じた。そして、自分は本当に水曜日に、彼女と再会するのだろうかと考えた。
 三好が出て行って、初めてかつての母の部屋に足を踏み入れたが、隅々まできれいに掃除されていて、中身の入っていない置き手紙のような感じがした。
 窓から差し込む鈍い光が、彼女の不在を際立たせた。しかし、母の死の直後に戻ったという感じはしなかった。他でもなく、僕自身がもう、あの時と同じではないのだから。
 その日の午後は、夕方まで、この文章を書くことに費やし、翌日には、二人の人間と会う予定だった。一人は、岸谷であり、もう一人はティリだった。
 午前中、僕は小菅(こすげ)にある東京拘置所まで、岸谷の面会に行った。返事が届いたのだった。あまり長くはなく、手紙の礼が書いてあり、出来たら会って話がしたいと記されていた。
 拘置所は、面会の予約が出来ず、ともかく行ってみるより他はないらしい。
 小菅駅からほど近く、スカイツリーを荒川の対岸に遠望した。手前の河川敷では、高齢者たちが草野球をしていた。その楽しげな様子が、僕の心を捉えた。無事にその年齢まで生きられ、そして、今は自由だということが、これから会う岸谷の境遇と対照的に感じられたからだろう。
 天気予報では、二月というのに、日中の気温が二十二度まで上がるらしく、セーターを着ていた僕は、到着する頃には少し汗ばんでいた。

関連キーワード

PR情報