本心<307>

2020年7月19日 05時00分 (7月23日 00時39分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 ――そのあとに起きたことが何だったのかは、今も曖昧なままだ。ともかく、それは一つの奇跡だった。
 どうした機械の不調か、ふと気配を感じて振り向くと、僕の傍らには、消したはずの<母>が座っていた。しかし、僕は不覚にも、本当に一瞬、母が生き返ったような錯覚に見舞われたのだった。
「お母さん!……」
 僕は、今こそその機を失わないために、恐る恐る、腕を伸ばした。あの日、握ってやれなかった手がそこにあった。そして、<母>に触れた。――そう、本当に触れたのだった。
 僕は慄然(りつぜん)とした。 V F (ヴァーチャル・フィギュア)の<母>の手には、確かに生きた人間の感触があり、体温があった。
「……お母さん、……」
 僕の両目からは涙が溢(あふ)れ出した。
 僕は、甲から<母>の手を握っていた。そしてそれは、僕の呼びかけに応じて掌(てのひら)を上に返し、また優しく、僕の手を握り直した。
 傍らには、人がいるという質量の圧迫感があった。<母>は、自分の体がいつの間にか備えた肉体の充実に気づかず、ただ、微笑しながら僕を見ていた。その手には、確かに生き返った人だけが持ち得るあたたかさが充ちていた。
 奇跡の驚きは、長くは続かなかった。僕はほどなく、何が起きているのかを理解した。この家にいるのは、僕の他に一人だけなのだから。
 それでも僕は、その出来事を奇跡と感じさせた、現実を覆う儚(はかな)い皮膜にしばらく留(とど)まっていた。僕は静かに目を閉じたが、再びその手が離れ、遠ざかってゆくまで、ヘッドセットは外さなかった。
      *
 三好の引っ越しは、簡単なものだった。朝からバタついていて、あまり感傷的になる間もなく、前夜のことも、お互いに何も言わなかった。
 昨日より、更(さら)に一層雲が薄くなって、西の方には青空も見えていた。

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