本心<306>

2020年7月18日 05時00分 (7月25日 00時48分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 僕は、母のいない自分の傍らを見つめた。そしてまた、止め処(ど)もなく溢(あふ)れ出す滝に目を遣(や)った。
 すべてはしかし、母がいないからこそ恣(ほしいまま)にされている、僕の勝手な妄想ではないのだろうか? 死者は、反論できない。僕がこうして自問自答を繰り返している間にも、母は、「朔也(さくや)、お母さんの考えはちょっと違うのよね。」と、決して言ってくれなかった。
 もし、ほんの一時間でも、生き返った母と対面することが出来たなら? そんな甘美な光景を思い描きはしたものの、僕はきっと、自分の出生についてなど、話さないだろうという気がした。その貴重な時間を、母を思い悩ませるような、そんな話には費やしたくなかった。
 僕が見てほしいのは、母と最後に会った時よりも、精神的に少し成長した今の僕の姿だった。その間に考えてきたことのお陰(かげ)で、僕が以前とは変わりつつあることだった。他でもなく、母の死の悲しみを、僕なりに克服して。母が、少しでもお金を残さなければと心配していたあの頃とは、僕はもう違うところを見てほしかった。
 そして僕は、僕の成長を感じ、喜ぶ母の姿が見たかった。人間的に、僕が良い方向に進んでいることがわかって、本心からの笑顔になる母が見たかった。僕はまだ、何も成し遂げてはいない。僕は前に進みたかった。母の死に、到頭(とうとう)、間に合わなかったことをするために。……
 僕は、ゆっくり滝から目を逸(そ)らすと、そこから彼方(かなた)に流れてゆく川を辿(たど)った。川床の岩の凹凸を滑らかにすべりながら、夥(おびただ)しい光の明滅が、また緑のトンネルに呑(の)まれてゆく。
 母がどんな心境で僕を生んだのかは、わからなかった。しかし、一つだけ確かなことは、母は死の一瞬前には、その僕といる時の自分でいたいと、心から願っていたのだった。
 僕は母から愛されていた。もしその一瞬に、立ち会うことが出来ていたなら、僕に伝えられたのは、ただ、感謝の気持ちだけだっただろう。その言葉によって引き起こされる反応が、母の胸に満ちること以上に、死を前にして、どんな望みがあるだろうか。……

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