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大水のたび動く渡船場 川島、渡し舟の記憶

2020年7月17日 05時00分 (7月17日 12時00分更新)
笠田地区で運航した渡し舟の風景=1961年(各務原市提供)

笠田地区で運航した渡し舟の風景=1961年(各務原市提供)

  • 笠田地区で運航した渡し舟の風景=1961年(各務原市提供)
  • 渡し舟の記憶を語る奥村さん=各務原市川島松倉町で
 四方を木曽川に囲まれ、二〇〇四年に各務原市と合併するまでは「合併不能村」とも呼ばれた旧川島町。暴れ川は長年大規模な架橋を拒み、一九六二(昭和三十七)年に川島大橋が完成するまで、各務原市など岐阜県側との往来は渡し舟が唯一の交通手段だった。川島には今も渡船場の跡があり、往時をしのばせる。 (大山弘)
 川島町史(八二年発行)によると、明治時代には町内集落も木曽川の支流で分断されており、町内外の集落を結ぶ渡しが十一ルート設けられていた。元教員の奥村真吉さん(93)=川島松倉町=は「渡し舟は、川が増水すれば休む。町外には『舟に乗らないと行けないところに、娘を嫁にはやれない』と言う人もいた」と振り返る。
 町史によれば、初めて川島に橋ができたのは二二(大正十一)年、河田地区と愛知県一宮市を結ぶ木造の河田橋だ。愛知県側は比較的川幅が狭く、その後も架橋工事が進んだ。昭和初期には小網、渡の二つの木造橋も完成。織物業の盛んな一宮へのアクセスが良くなったこともあり、川島は撚糸(ねんし)業が発展した。
 川島の経済発展に欠かせなかった木造橋だが、大水が出るたびに下流に流され、復旧するまでは渡し舟に頼ることになっ...

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