本心<304>

2020年7月16日 05時00分 (7月20日 00時05分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 大抵の人間は、祖父母くらいまでは知っている。しかし、五代前の先祖も、二十代前の先祖も知らない。
 何万年も昔、アフリカから溢(あふ)れ出したホモ・サピエンスは、移動しつつ、留(とど)まりつつ、世界各地で爆発的に繁殖した。その肉体から肉体へと乗り換える遺伝子のリレーの道行きには、凡(およ)そ許されざるべき男も、数多(あまた)、存在したことだろう。不本意な妊娠をした母たちが、どれほどいたことか。しかし、もし僕に、過去に遡(さかのぼ)って、その間違った関係の一つでも喰(く)い止めることが許されるならば、僕はもう、この世界に存在しないのだった。……
 僕は母に訊(き)きたかった。友達に裏切られ、思い描いていた共同生活の計画が――何て早まった計画だろう!――破綻した時、僕を堕胎しようとは思わなかったのか、と。
 母は、この僕が生まれてくるとは知らなかった。ただ、誰かが生まれてくることだけを知っていた。だから、この僕が、未来から母に堕胎を思い止(とど)まるように呼び掛けることは出来なかったのだった。母は、では、その誰かに制止されたのか? そして、その誰かを、自分の子として生みたかったのだろうか?――
 僕は自分が、おかしなものの考え方をしている気がして、そこで立ち止まった。そして、また始めからやり直した。
 母はただ、子供が欲しかったのだった。一つの平凡な願望として。そして、その欲しいものを、自分の体を使って生み出したのだった。僕は改めて、その単純な事実に感嘆し、目を瞠(みは)り、心から敬服した。
 しかし、母が堕胎しなかったのは、この僕だとわかってのことではなかった。
 独り残された母は、その自分の欲しかったものに、「朔也(さくや)」という名前をつけた。そして、「朔也」は、成長とともに、次第に僕になっていった。母は、そのことを、どう感じていたのだろうか? “英雄的な少年”たちがいなくなったあと、独りで高校の廊下に座り込んでいた僕を迎えに来た時? 高校を辞め、職を転々とし、リアル・アバターなどという仕事で、どうにか喰い繋(つな)いでいる僕と同居しながら?

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