本心<302>

2020年7月14日 05時00分 (7月18日 00時10分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 滝の音には、岩肌に反響する力強い響きがあった。それが、緑に濾過(ろか)されながら、青空に昇ってゆく。
 僕は、<母>と話すために、滝の音を少し落とした。囁(ささや)くほどに絞られた大音量が、僕たち親子に、会話の場所を開いた。
「お母さんが、忘れてることがたくさんあるよ。……藤原さんに、僕の出生を巡る話、聞いたんだよ。……」
「どんな話?」
 僕は、傍らの<母>の目を見ながら、彼から聞いたままを伝えたが、<母>はまったく、その内容を理解できなかった。
「ごめんなさい、お母さん、その話は、ちょっとよくわからないのよ。……」
 <母>は、何度もそう繰り返した。<母>の中のAIは、その混乱を、在(あ)り来(き)たりな動揺の表情で示しながら、健気(けなげ)に新たな学習に努めていた。
 生きていた母ならば、今こそ、その本心をありありと湛(たた)えた表情で、僕と真剣に向き合ったのではなかったか。
 <母>が、今よりもっと本質的に母らしくなるためには、僕は根気強く、この学習につきあってやらねばならなかった。そうすれば、僕はいつか、本当の母が発したであろう言葉と限りなく近い答えを、<母>から耳にするのかもしれない。<母>はそれを、僕の心を激しく揺さぶるほど自然に、口にしてくれるのではあるまいか?……
 しかし、僕は寧(むし)ろ、<母>との関係を終わらせる時が来たのかもしれないと、この時、感じていた。しばらく前から、薄々(うすうす)考えていたが、それはまさに、今なのかもしれない。
 僕は、操作画面を開いて、傍らから<母>の姿を消した。<母>は、驚いた顔を作る暇(いとま)もないまま、僕を見つめながら消えた。
 最初から一人だったのに、僕は、一人であることを、初めて気づいたかのように、しんみりと感じた。奇妙な錯覚で、この滝の仮想現実の外側には、《縁起》のあの巨大な宇宙空間が広がっているような気がした。
 多分、寂しさから、僕はまた、少しだけ滝の音を大きくして、その凄(すさ)まじい水の落下を見ていた。本物の滝は、今は冷え切った冬の深夜の山中で、誰の目にも触れることなく、暗闇に轟音(ごうおん)を鳴り響かせているはずだったが。……

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