梵鐘の音に宿した魂 七代目 老子次右衛門(1878〜1962年)

2020年7月12日 05時00分 (7月13日 10時06分更新)
若かりしころの七代目老子次右衛門(左)=老子製作所提供

若かりしころの七代目老子次右衛門(左)=老子製作所提供

  • 若かりしころの七代目老子次右衛門(左)=老子製作所提供
  • 鋳込み作業を説明する元井秀治=高岡市戸出栄町で
  • 七代目老子次右衛門

◇高岡 老子製作所の名工


 梵鐘(ぼんしょう)の生産日本一といわれる高岡銅器メーカー「老子(おいご)製作所」(高岡市戸出栄町)の礎を築いた。「老子の鐘の音色が宣伝してくれる」と音にこだわった名工の技と精神は現在も同社の梵鐘鋳造に生き続けている。(武田寛史)
 金属を溶かす炉に風を送るたたら踏みを経験した最後の板戸(いたど)(たたら職人)だった。梵鐘の中子型作りの技法「煉瓦(れんが)積み」を考案し、クレーンや送風機など機械化と近代化を先んじて取り入れ、鐘の音と形を研究した。学会誌「鋳物」の特別寄稿の中に「常に何か変わった方法を考案して、進歩的に万事を対処してきた」と書き残している。
 老子標準型は七代目の設計をそのまま現在に受け継いでいる。「重要なのは音色の余韻の長さと唸(うな)りだが、何の手を加えることもなく踏襲している。変える必要がないのは完成しているから」と話すのは孫で十四代目の同製作所会長・元井秀治(ひではる)(65)。
 太平洋戦争中の勅令「金属類回収令」で梵鐘を失った全国の寺院から終戦後に注文が殺到した。現地で鋳造する「出吹き」も含めて最盛期は年間二百基を鋳込んだ。「戦後の梵鐘製作時代の主役はまさに七代目だった」と語る。
 早朝に近くの有礒正八幡宮に宮参りし、いつでも仕事ができるように準備して職人らを待った。朝に夕に仏壇で経を唱えた。同社は七代目の信仰心も守り続ける。没後、同社は広島の平和記念式典で鳴らされる「平和の鐘」や東日本大震災の被災地・岩手県釜石市の「復興の鐘」を鋳造した。元井は「子どものころは平和記念式典の日に必ずテレビの前で鐘の音を正座して聞かされた。うちが作るのは平和を願う鎮魂と慰霊の鐘なんです」と話す。
 金屋町の工場が遊び場だった元井は「じいさんは鋳込みが始まると工場で職人の仕事に目を光らせていた。じいさんの弥栄節(やがえふ)(たたら踏みの歌)は哀調があった」と晩年の姿を思い返す。そして「梵鐘は“感動製品”。二万基を作ってきた長年の経験則は揺るぎない」と語る言葉に歴代の老子次右衛門の魂が宿る。=敬称略

【プロフィール】おいご・じえもん=六代目老子家の長男として高岡市金屋町に生まれた。14歳から鋳物の名家・喜多万右衛門(きたまんうえもん)のもとで修業し、33歳で独立。戦後に老子製作所を設立。70年間、梵鐘作りに心血を注いだ。黄綬褒章、紺綬褒章、勲六等単光旭日章を受章。


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